福井藩松平家上屋敷跡

マーカーは逓信総合博物館(愛称:ていばーく)です。

福井藩松平家
[福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩御家門で、32万石。 越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代松平忠昌以前の結城(松平)秀康松平忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称する事がある。
松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型・wikipedia-photo、「藩祖・結城秀康」・wikipedia-photo、松平慶永(春嶽)・wikipedia-photo  (wikipedia-福井藩より)]

松平春嶽
[松平 春嶽(まつだいら しゅんがく)は、幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家。第16代越前福井藩主。春嶽はで、は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われている。天保10年2月より、全藩士の俸禄三年間半減と、藩主自身の出費五年削減を打ち出し、財政基盤を盤石にすることに努めた。天保11年(1840年)1月、藩政の旧守派の中心人物であった家老松平主馬が罷免され、以降の藩政は中根雪江らの改革派が主導権を握った。 中根雪江や由利公正橋本左内らの補佐を受け、翻訳機関洋学所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。嘉永6年(1853年)、アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、水戸徳川家徳川斉昭薩摩藩主の島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張するが、老中阿部正弘らと交流して開国派に転じる。13代将軍・徳川家定の継嗣問題では、橋本左内を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の慶喜を後押しする。幕閣では紀州徳川家の徳川慶福(のちの徳川家茂)を推す南紀派で彦根藩主の井伊直弼大老となり、将軍世子は慶福に決定する。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議したが、安政5年(1858年)7月5日、不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると幕府の政策方針も転換し、春嶽は文久2年(1862年)4月に幕政への参加を許される。
慶応3年(1867年)、島津久光が送った西郷隆盛に促された前土佐藩主の山内容堂宇和島藩主・伊達宗城が相次いで上京。当時京都に居た春嶽もまた、小松帯刀の説得を受け、この四者で四侯会議が開かれた。第1回の会合は5月4日(6月6日)に京都の越前藩邸で開かれ、以降2週間余の間に徹夜も含めて8度会談は開かれた。朝廷関係者、一橋慶喜らを交えた会議では、兵庫開港や長州藩の処分について話し合われた。春嶽は長州征伐には最後まで反対するが、慶喜の巧みな懐柔により慶喜らの意見が勝利した。この会議の失敗以降、薩摩藩は強硬な倒幕側へ傾き、土佐藩は反対に幕府擁護の姿勢に傾き、慶喜に対しギリギリのタイミングで大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している。12月9日(1868年1月3日)の王政復古の宣言の前日、朝廷より議定に任命される。王政復古後の薩摩・長州の討幕運動には賛成しなかった。松平春嶽・wikipedia-photo  (wikipedia-松平春嶽より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大繪圖(出版年月日・正徳4 [1714])」(コマ番号4/6・絵図四つ切左上、「カンタハシ」左下に「松平大炊頭」(松平吉邦)屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図(出版年月日・宝暦13 [1763])」(コマ番号3/5・絵図四つ切左上、「トキハ橋」右上に「松平越前守」(松平重富)屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図右下に松平越前守(松平春嶽・福井藩松平家上屋敷)が描かれています。)

[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2年・1849年)」・「bunko01_01854_p0001.jpg

カメラ北東方向が「逓信総合博物館(愛称:ていばーく)」です。(2013年の画像。現在は改築中です。)

大手町二丁目([現]千代田区大手町一―二丁目)
[明治5年(1872)に成立。神田橋から南に延びる道の東側、道三(どうさん)町・銭瓶(ぜにかめ)町の北を占め、北から東にかけて外堀が巡る。南東角に常盤(ときわ)橋があり、同橋と神田橋で神田・日本橋方面へ通じる。古くは平川(ひらかわ)村の内で、江戸城築城に伴い武家地となり、西半は神田橋御門内(かんだばしごもんない)、東半は常盤橋御門内(ときわばしごもんない)と通称された。慶長江戸絵図によれば関東郡代伊奈忠次など徳川家譜代家臣のほか、外様大名藤堂高虎伊勢国津藩)・生駒一正讃岐国高松藩)の屋敷もみえる。明暦3年(1857)の大火で一帯が焼失した後、松平綱吉(のちの徳川綱吉)が神田橋御門内に上屋敷(神田御殿)を拝領した。元禄年中(1688~1704)に柳沢吉保甲斐国甲府藩)が神田御殿北側に上屋敷を拝領、同16年には常盤橋内までの外堀沿いの地を道敷・馬場とも囲い込み、正徳元年(1711)にはかつての神田御殿の西半を取込んで拡張するがまもなく替地となり、同3年に東部を越前国福井藩松平家、同五年には西部の北側を出羽国鶴岡藩酒井家、南側を越後国高田藩榊原家がそれぞれ上屋敷として拝領する。寛保元年(1741)榊原家に代わって豊前国小倉藩小笠原家がこの地に入るが、そのほかは変りなく幕末に至る(沿革図書など)。明治維新後福井藩松平邸は存続、津藩藤堂邸・薩摩鹿児島藩島津邸が新たに割られ、後には文部省教部省大蔵省紙幣寮用地・御雇外国人居留地となった(明治四年東京大絵図・同九年明治東京全図)。  (「大手町二丁目 | 仲介手数料最大無料の東京賃貸事情」より)]

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