老中屋敷・宇都宮藩戸田山城守(忠温)上屋敷跡

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戸田忠温
[天保4年(1833年)に奏者番に任命され、天保11年(1840年)2月に寺社奉行を兼務した。弘化2年(1845年)からは老中となり、最初の正室の甥である阿部正弘と共に紛糾する外交問題の処理から海防の意見書の提出を求めたり、砲台の改築や諸大名への防備の強化を命じたりした。
忠温は幕府の要職を歴任したため幕府の要路に金を使い、藩財政が悪化したので家老の戸田七兵衛は諌めたが聞き入れなかった。また江戸藩邸にはオランダ人や琉球人を招いて藩財政の窮乏をよそに賑やかだったという。また年下で義理の甥である正弘に老中就任で先を越されたため、あるとき忠温の供頭が恐ろしい形相で睨みつけていたという話も伝わる。
経歴
1804年(享和4年) 生まれ(2月5日に文化に改元)
1823年(文政6年) 兄・戸田忠延死去、宇都宮藩主相続
1833年(天保4年) 奏者番
1840年(天保11年) 寺社奉行
1843年(天保14年) 老中
1851年(嘉永4年) 死去(享年48)  (wikipedia・戸田忠温より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図四つ切左上・馬場先御門上方向右に戸田山城守(忠温)上屋敷が描かれています。)

カメラ位置は内堀通りで、この付近が老中屋敷・宇都宮藩戸田山城守(忠温)上屋敷跡中央部付近になります。