若年寄・敦賀藩酒井右京亮(忠毗)上屋敷跡

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敦賀藩
[敦賀藩(つるがはん)は、越前国敦賀郡(現在の福井県敦賀市)を支配した藩。別名を鞠山藩(まりやまはん)という。
敦賀藩の前史は結城秀康松平忠直越前松平家の領地の一部である敦賀領であった。この敦賀領は後に松平家を離れ、若狭京極家の小浜藩領となった。敦賀藩の創設は小浜藩第2代藩主・酒井忠直が死に臨んで次男・酒井忠稠に1万石を分与していたことから始まった。小浜藩の支藩である。藩庁は敦賀郡最東に築かれた鞠山陣屋に置かれ、同陣屋は千葉県飯野陣屋山口県の徳山陣屋と共に、日本三大陣屋の一つに数えられる。
歴代藩主は江戸定府が常であり、領国の支配は本家の小浜藩が担っていた。そのため、陣屋を実際に利用していたのは、少数の役人のみであったと言われている。第4代藩主酒井忠香時代の宝暦9年(1759年)、敦賀藩は形式上本家小浜藩の支配から独立した藩となった。しかし敦賀藩では財政難が相次いだ。このため第7代藩主の酒井忠毗(ただます)時代の安政6年(1859年)10月、再び本家小浜藩に所領を返還しようとする動きがあったが、領民が猛反対したために中止せざるを得なくなった。忠毗は若年寄を務めた功績により文久元年(1861年)9月に1080石を加増され、翌年6月には城主格を与えられるに至った。しかしこのため、藩主による参勤交代の義務も生じ、さらに財政難に拍車がかかった。
忠毗は佐幕の立場であったが、慶応3年(1867年)6月に忠経に家督を譲って隠居した。翌慶応4年/明治元年(1868年)の戊辰戦争においては新政府側に与し、北陸道鎮撫使の先鋒役を務めた。明治元年(1868年)6月、京都において藩士5人が家老らを殺害する事件(鞠山騒動)が発生した。
明治2年6月24日(1869年8月1日)、版籍奉還が行われた。翌明治3年(1870年)3月、敦賀藩は藩名を正式に鞠山藩と改称し、同年9月にその所領は小浜藩に併合された。翌明治4年(1871年)の廃藩置県で完全に廃藩となる。
名門若狭酒井家の支藩であっただけに、歴代藩主の多くが大番頭や奏者番寺社奉行、若年寄、大坂城番などの幕府要職を務めるなど、小藩ながらその存在は大きく見られていた。  (wikipedia・敦賀藩より)]

神田錦町
[江戸期は神田橋御門外と一橋御門外の武家地で、伊勢神戸藩本田氏、越前敦賀藩酒井氏、信濃飯山藩本田氏上屋敷、三番原(新駒ヶ原)といわれた火除地、曲木家預りの厩、勘定奉行役宅等であった。町名は嘗て一色姓の屋敷が2家並んでいたことから、俗に「二色町」、「錦小路(二色小路)」(現・一丁目と二丁目の間の道)と呼ばれていたことに因む(東京地理志料)。「錦」とは、旗本の一色氏(三河国一色荘が本貫)。  (「【神田①081】神田錦町 | 江戸町巡り」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図中央左・馬場先御門左上に酒井右京亮(忠毗)上屋敷が描かれています。)

カメラ位置は若年寄・敦賀藩酒井右京亮(忠毗)上屋敷跡中心部付近になります。