銭瓶橋跡

マーカーは銭瓶橋跡案内板です。

銭瓶橋
[所在地 千代田区大手町2-6
 昔ここに堀があり、そこに架かっていた橋を銭瓶橋といいました。堀(道三堀)を掘った時、地中より銭の入った瓶を掘出したので橋の名となったともいい、又一説には、この辺で永楽銭の引換えをしたので、銭替橋といったとの説もあり、あるいはここで両替をするものが市をなしていましたが、あまりに多くなり仲間をきめて、両替をしたので銭買橋といったともいわれています。又夜中、江戸城の奥女中が城外に出るには通行切手がなくては外に出られなかったが、”銭かいばしを玉曼ぬけ”という句があるように、この橋の下からは切手なしで船でぬけ出られたので、この名がついたという説もあり、『そぞろもの語』(寛文18年〔1664〕印本)に天正19年(1591)伊勢与市という者が銭瓶橋の近くで風呂屋を開業、永楽1銭の代金をとったとかかれています。明治42年(1909)に埋立てられ今は濠もなく橋もなくなり銭瓶の名だけ残っています。  昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会   (「東京都千代田区の歴史 銭瓶橋跡」より)]

[銭瓶橋は、徳川家康江戸入りした際、荒廃していた江戸城修築のための物資を運び入れるための舟入掘であった道三掘に架けられていた橋。後に、北側には勧請奉行所、南には北町奉行所が設置された。なお、歌川広重名所江戸百景八つ見のはし」の中央に描かれている橋が銭瓶橋です。銭瓶橋のあったところは完全に埋め立てられ、現在は日本ビルが建っていて、写真の地下街への入口辺りがその跡と思われる。ちなみに、昭和初期まで、このあたりは銭瓶町であり、今でも日本ビルの地下にある東京都下水道局のポンプ場の名は「銭瓶町ポンプ場」である。余談ですが、江戸に初めて湯屋が設けられたのが、この銭瓶橋の袂だったそうです。と言っても、当時は湯に浸かるのではなく、蒸し風呂のようなものだったそうです。  (「銭瓶橋跡 – 旅猫江戸日記」より)]

104.「続」中央区の“橋”(その4)(PDFファイル:1107.37 KB)によると、千代田区大手町二丁目の日本ビルの南東端あたりに銭瓶橋が架かっていたようです。

武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション(1624-1643・寛永年間」[絵図中央下に十本の船入堀が描かれ、中央の舟入が紅葉川で、紅葉川が接続する川が楓川です。楓川の左の接続が日本橋川で日本橋、一石橋が描かれ、その上に銭瓶橋が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永二年・1849年)」
尾張屋清七版の切絵図に於ける、一石橋・呉服橋御門・銭瓶橋・常盤橋御門の位置関係図。

[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2[1849]年)」・「bunko01_01854_p0001.jpg

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「八見橋」(1-33)、「銭瓶橋解説・右ページ中程より」(1-34)
八見橋(拡大図)

[図会左ページ中央下に一石橋、その上に呉服橋、そこの左上に鍛冶橋、右ページ下に常盤橋、その上に銭瓶橋、そこの右方向端に道三橋が描かれています。また、描かれていませんが日本橋川・一石橋左側の日本橋江戸橋を含め八つ橋と呼ばれていました。]

名所江戸百景」・[八ツ見のはし]wikipedia-photo~八ツ見のはし(一石橋)から描かれている橋は銭瓶橋です。

銭瓶橋跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南南西方向に銭瓶橋跡案内板があります。

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