マーカーは館林藩秋元家上屋敷跡です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP587・コマ番号337/553から館林藩屋敷の変遷について記載されています。P598・コマ番号338/553「上屋敷 呉服橋内」がこの地になります。この後、慶応元(1865)年浅草新寺町に屋敷替えとなります。
館林藩秋元家
[館林藩(たてばやしはん)は、上野邑楽郡にあった藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして徳川御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。1845年、井上正春が転封となり、秋元志朝が6万石で入封、それ以後1871年の廃藩まで秋元家が藩主として続いた。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。
弘化2年(1845年)11月、井上正春が遠江浜松藩へ移され、代わって出羽山形藩から秋元志朝が6万石で入った。志朝は民政に力を注ぎ、文武奨励などを行って藩政改革に成功を収めた。また、長州藩とも縁戚関係にあったため、常陸水戸藩と共に関東における尊皇攘夷派の急先鋒となった。ところが長州藩と親しかった(志朝は周防国徳山藩8代藩主・毛利広鎮の八男)ことが幕府からの嫌疑を招き、元治元年(1864年)7月の禁門の変で志朝は同年10月27日、家督を養嗣子の礼朝に譲って強制隠居処分となった。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、遅参したことを咎められたが、金2万両を献上したことによりこれを許され、政府軍の一員として奥羽征伐で軍功を挙げた。これにより翌年、1万石の加増を受ける。なお、礼朝は同年の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で館林藩は廃藩となった。 (wikipedia・館林藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図左端下に秋元但馬守(秋元志朝)上屋敷が描かれています。)
カメラ位置はサピアタワー前交差点で、カメラ位置周辺道路を含め、カメラ南西方向東京駅日本橋口広場及び入口先、ホテルメトロポリタン丸の内が館林藩秋元家上屋敷跡になります。(館林藩秋元家上屋敷跡範囲:千代田区丸の内1丁目7,8)