鯖江藩間部下総守上屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP834・コマ番号461/553の鯖江藩上屋敷の変遷について下記の通り記載されています。
『鯖江藩 子爵間部家 旧封四万石
一、上屋敷 馬場先内
  拝領寛永元(1624)年十二月十一日 上地寛永三(1626)年五月十五日
一、上屋敷 西丸下
  拝領寛寛永三年五月十五日 添地拝領同年十一月五日、寛永七(1630)年三月十五日 上地享保二(1717)年二月二日
一、上屋敷 三田小山
  拝領享保二年二月二日 上地天保十一(1840)年正月十七日
一、上屋敷 大名小路
  拝領天保十一年正月十七日 上地天保十二(1841)年六月十五日
一、上屋敷 辰之口
  拝領天保十二年六月十五日 上地年月不詳
一、上屋敷 西丸下
  拝領年月不詳 上地天保十四(1843)年十一月八日
一、上屋敷 常盤橋内
  拝領天保十四年十一月八日 上地安政五(1858)年七月六日
一、上屋敷 西丸下
  拝領安政五年七月六日 上地万延元(1860)年閏三月
一、上屋敷 外桜田
  拝領万延元年閏三月 上地慶応二(1866)年月不詳
一、上屋敷 西久保切通
  拝領慶応二年月不詳』
この上屋敷地は常盤橋内になります。

鯖江藩間部下総守
[間部 詮勝(まなべ あきかつ)は、江戸時代後期の大名。越前鯖江藩第7代藩主。間部家8代。幕末老中首座を務めた。
文化11年(1814年)に鯖江藩主となり、11代将軍・徳川家斉の側近として奏者番寺社奉行大坂城代京都所司代などを歴任する。天保11年(1840年)、家斉の推薦で西丸老中となったが、天保の改革を行っていた水野忠邦に、奢侈好みだった家斉の最晩年の側近だったと疎まれ、天保14年(1843年)に老中を辞任した。
その後、安政5年(1858年)6月に南紀派大老井伊直弼の下で再び老中に復帰し、財政を担当する勝手御入用掛と外交を担当する外国御用取扱を兼務する。その後、勝手掛老中に上った。同年9月には上洛し、朝廷から日米修好通商条約調印の許を得るとともに、京都所司代酒井忠義とともに一橋派尊皇攘夷派を弾圧する安政の大獄に奔走する。こうした動きに対し、吉田松陰は間部詮勝の暗殺を企てた。「井伊の赤鬼」に対して「間部の青鬼」といわれたが、粛々と政敵との対話を進めた姿勢は評価されている。
しかし、安政6年(1859年)3月、江戸に戻ると井伊直弼と対立するようになる。条約の勅許を得るといった成果をあげたことで、幕政の主導権を握ろうとしたようである。その結果、同年12月に免職となる。また、徳川慶喜らの復権にともない、詮勝が老中在任中に失政ありとして、文久2年(1862年)11月に隠居謹慎とともに1万石の減封を蒙った。慶応元年(1865年)5月、謹慎を解かれた。
明治元年(1868年)10月、明治政府から会津藩との内通を疑われて国許での謹慎を命じられる。同年12月、謹慎を解かれる。明治2年11月、東京及び京都へ立ち入ることを許可される。
明治17年(1884年)11月28日に死去。享年81(満80歳没)。  (wikipedia・間部詮勝より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図四つ切右下に間部下総守上屋敷が描かれています。)

カメラ位置は大手町二丁目交差点で、カメラ南南西方向道路両サイドが鯖江藩間部下総守上屋敷跡のなります。