マーカーは鶴牧藩水野家上屋敷跡です。
関連リンク- 鶴牧藩水野家中屋敷跡、鶴牧藩水野家下・抱屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP632・コマ番号360/553から鶴牧藩屋敷の変遷について記載されています。P636・コマ番号362/553「上屋敷 呉服橋内」がこの地になります。
鶴牧藩水野家
[鶴牧藩(つるまきはん)は、江戸時代後期から廃藩置県まで上総国に存在した藩。藩庁は鶴牧城(鶴牧陣屋。現在の千葉県市原市椎津)に置かれた。
安房国北条藩主であった水野忠韶は文政10年(1827年)5月19日、上総国市原・望陀両郡に移封されたことから、鶴牧藩が立藩した。忠韶は市原郡椎津村1万7000坪の城地に陣屋を建設する。城主格の大名であったことから、この陣屋は鶴牧城(鶴牧陣屋)と名づけられた。しかし忠韶は翌年5月27日に68歳で死去し、跡を養嗣子の水野忠実(酒井忠徳の次男)が継いだ。忠実は奏者番・西の丸若年寄などを歴任し、藩政においては藩財政再建のために倹約などの諸政策を講じたが、あまり効果はなかった。天保13年(1842年)1月19日に忠実は死去し、跡を嫡男の水野忠順が継いだ。明治元年(1868年)4月、戊辰戦争のときに鶴牧藩内の市原郡五井村で五井村戦争が起こる。この不手際から同年10月、安房国長狭や上総国夷隅・市原・埴生・長柄・山辺などの所領を上知され、代わって上総国市原・望陀両郡に新たな所領を与えられた。翌年の版籍奉還で忠順は知藩事となった。そして忠順は官制・軍制改革を主とした藩政改革を行なったが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で鶴牧藩は廃藩となった。 (wikipedia・鶴牧藩より)]
「国立国会図書館デジタル資料 – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」[絵図下中央に・水野壱岐守(水野忠順)上屋敷が描かれています。]
カメラ位置は東京駅八重洲中央口で、カメラ西北西方向付近に鶴牧藩水野家上屋敷跡があったことになります。