マーカーは「矢ノ倉」由来碑です。
矢ノ倉
[日本橋中学校舎の西南角に「矢ノ倉」の碑が建てられています。右側には建てた趣旨が書かれています。
趣旨
由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜しむの余り旧跡として後の世の人々の語り草ともなればと、町内有志が相寄って町会記念事業として、この碑を建立したものである。
東日本橋1丁目矢ノ倉町会有志一同
左側には由来が書かれている。
由来
江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保2年(1645)徳川幕府が米倉を建て、これを谷之御蔵と称した。元禄11年(1698)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末までこの地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり、柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治5年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。昭和46年4月1日住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋1丁目となった。江戸時代からの旧町名の保存を記念としてこの碑を建立する。 (「中央区観光協会特派員ブログ – 矢ノ庫稲荷神社落慶なる」より)]
矢ノ倉資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 増補江戸大絵図絵入(延宝9年・1681年)」(コマ番号4/5・絵図中央左方向、隅田川に一橋だけ描かれている橋が、初架の両国橋で、橋左上に米蔵が描かれています。この年、この橋は流失してしまいます。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – ゑ入江戸大繪圖(貞享4 [1687])」(コマ番号4/6・絵図中央左方向に両国橋の仮橋が描かれ、その右上に米蔵が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – 江戸図正方鑑(元禄6・1693年)」(絵図四つ切右上・隅田川に両国橋の仮橋が描かれ、その左上に矢ノ御蔵が描かれています。)
「元禄6年[1693]の「[江戸図]」の「カット番号11・ru11_01193_p0011.jpg」[絵図の両国橋が2箇所描かれ左側の両国橋が×になっている。「七味発祥の地「両国橋界隈・江戸の歴史」 – e-mansion IS」に『両国橋」は万治2年(1659年)架けられたが、天和元年(1681年)12月の水害で流失、元禄9年(1696年)完成したが、この地図の橋は「仮橋」で、浜町寄りに在った。』とあるので、この絵図は元禄9年(1696年)両国橋再建後、仮橋(両国橋)を×で消して再建をされた大橋を書き加えたもののようです。仮橋(両国橋)と大橋の間が矢ノ倉です。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸大絵図元禄十二(1699)年」(コマ番号4/5・絵図中央左方向に復旧後の両国橋が描かれ、米蔵の部分が黒塗りされています、この時点で米倉は移転済みだと思います。)
「国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図右上方・両国広小路と薬研堀の間に矢ノ倉があった。)
「東京市日本橋區全圖 : 明治四十年一月調査 – (題箋)番地入東京市日本橋區全圖(明治40・1907年)」(地図右上・矢ノ倉町、若松町の「町」の字の部分、と薬研堀町の右方向、両国橋までが米倉になると思います。)
両国橋の架橋については「東京都中央区立京橋図書館 – 郷土室だより – 中央区の”橋”(その1)」がおすすめ。そこからのコピー図。
絵本江戸土産 – 其二向両国茶屋 元柳橋 濵町(拡大図)
カメラ北方向角に「矢ノ倉」由来碑があります