マーカーは「江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所」碑です。
お玉ヶ池種痘所
[現在岩本町2丁目になっているところあたりに「お玉が池」がありました。お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さでしたが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけとなっています。
この、お玉が池のほとりに、安政5年(1858)伊東玄朴や大槻俊斎ら江戸の蘭学者たち82名が資金を出し合って「種痘所」をつくりました。種痘所は、痘瘡の予防接種の普及を図るための集会所で、勘定奉行の川路聖謨の屋敷にあったといわれています。ただし、半年後に焼失し、下谷和泉橋通り(現・神田和泉町)に移ってしまいました。
しかし、この地で生まれた蘭学者たちの精神は生き続け、種痘所は名前を変えながら東京大学医学部へと発展しました。 (「千代田区観光協会 – 「江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所」碑(東大医学部発祥の地)」より)]
[江戸最初の
お玉ヶ池種痘所跡のあった所
お玉ヶ池史蹟保存会
お玉ヶ池種痘所
お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです
一時は池のほとりに
梁川星巌の玉池吟社
市川寛斎の江湖詩社
大窪詩仏の詩聖堂
東條一堂の瑶池塾
佐久間象山の象山書院
剣士千葉周作の道場玄武館
磯又右衛門の柔道道場
永坂石埭宅 清元太左衛門宅など 文武の華が咲きほこりました
この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘所があったところで東京大学医学部発祥の地です 同学部は昭和33年に迎えた創立百年の記念に昭和36年文化の日お玉ヶ池種痘所記念碑と同時にこゝに元標を立てられました
お玉ヶ池史蹟保存会]
[お玉が池種痘所の開設にあたっては、医師たちを、蔭で支えた人々がいた。その中の一人は、幕府勘定奉行川路聖謨[としあきら]である。御家人株を買って幕臣となった父と江戸に出て、下級幕吏となった彼は、その能力を認められて旗本となり、嘉永五年(一八五二年)には勘定奉行となった。翌年には、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンとの交渉役を命じられ、安政元年(一八五四年)に、下田で日露和親条約に調印した。このように、外国文化を理解し、開国に積極的であった川路は、種痘所開設の意義をよく理解し、自らの拝領屋敷内に、種痘所を開設することを、老中堀田正睦に願い出てくれたのである。しかし彼は、安政五年(一八五八年)に井伊直弼[なおすけ]が大老に就任すると左遷され、政治の表舞台からは姿を消した。彼の助力によって認められたお玉が池種痘所開所の前日、五月六日のことであった。
お玉が池種痘所は、開所からわずか半年後の十一月十五日、神田相生町に発した火事のために焼け落ちてしまう。しかし、種痘業務は先述のように駅伝リレーのごとく痘苗を受け継いでいかねばならないため、大槻俊斎と伊東玄朴の自宅を仮種痘所として業務を続けた。彼らは早速種痘所再建に乗り出したが、この時、すでに失脚していた川路聖謨の拝領地は幕府に返却されていたため、元の地に種痘所を再建することは出来なかった。このため、伊東玄朴邸の東南にあたる、下谷和泉橋通の、山本嘉兵衛および安井甚左衛門屋敷の地所を借りて、種痘所を再建することになった。そして、お玉が池種痘所焼失から九ヶ月を経た安政六年(一八五九年)九月、新しい種痘所が竣工した。 (「出版物BRAIN – 日本脳神経財団」より)]
種痘所の変遷
[●安政5年(1858)5月、江戸の蘭方医82名の出資により、神田お玉ヶ池に種痘の普及と西洋医学の講習を行うことを目的とした私設の種痘所が開設される。
●同年11月、神田相生町からの出火で種痘所が類焼する。大槻俊斎 伊東玄朴宅(伊東玄朴屋敷跡) を臨時の種痘所とし, 種痘業務を続ける。
●同年12月、仮小屋を下谷和泉橋通りに建てる。
●安政6年(1859)7月、将軍徳川家定の病状が重症化し、1849年より禁止されていた蘭方医術が解禁され伊東玄朴, 戸塚静海が奥医師となる。
●同年9月、下谷和泉橋通りに種痘所を再建する。
●万延元年(1860)7月、幕府からの公式な援助を得られることになる。
●同年10月、幕府に接収され, 官立の種痘所となり、初代頭取に大槻俊斎が就任。
●文久元年(1861)3月、種痘奨励のため「種痘諭文」を発行する。
●同年8月、医学研究のために毎年男女各1体の人体解剖の許可を願い出る。
●同年10月、小塚原刑場での人体解剖が許可される。西洋医学所と改称, 組織を種痘・医学教育・解剖の三科とする。
●文久2年(1862)閏8月、2代頭取に緒方洪庵が就任。文久3年(1863)2月、医学所と改称する。
●同年7月、3代頭取に松本良順が就任する。教授職5名 助教授4名 通学生約30名 寄宿生約30名。
●慶応元年(1865)春、ポンペのもとで学んだ松本良順は, 組織の整備拡充を行い、いわゆる七科(物理・化学・解剖・生理・病理・薬剤学・内科・外科)を置く。
●慶応2(1866年)5月、種痘のための出張所を江戸数ヵ所に置く。 (「東京大学医学部の歩み 江戸~明治 > 1858~1867」より)]
「お玉ヶ池種痘所の開設(種痘⑤ 江戸の大変) : 気ままに江戸 散歩・味 …」
お玉ヶ池種痘所からの移転先の資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切左上・市橋下総守上屋敷左下に医師、その下鍵の手左に医師と記述されている場所がお玉ヶ池種痘所と思われます。)
「国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図中央上方向・玉池イナリと描かれている場所がお玉ヶ池種痘所と思われます。)
「東京都立図書館アーカイブ – 内神田東部之図」(絵図中央左上・市橋下総守の上の武家地がお玉ヶ池種痘所跡と思われます。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図・中央左側・藤堂和泉守(津藩)上屋敷の上左方向、藤堂佐渡守(伊勢久居藩)上屋敷左通り上方向の和泉橋通り角に伊東玄朴と描かれています。この地は伊東玄朴が講武所南の屋敷地から移ってきた地で、お玉ヶ池種痘所が類焼後、臨時の種痘所となっています。その右、山本嘉兵エおよび安井?次郎(甚左衛門)屋敷の地所が、その後種痘所の再建場所になります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十五年・1844年)」(2/3・地図中央右寄り修正箇所部分が種痘所と記述されています。)
「お玉ヶ池種痘所記念碑 – Google Map 画像リンク」
カメラ西北西方向が「江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所」碑です。
カメラ西北西方向が「江戸最初のお玉ヶ池種痘所跡のあった所」碑です。(Google Maps)