「熈代勝覧」の複製絵巻展示

マーカーはカメラ位置です。

『熈代勝覧』(きだいしょうらん)
「「熈代勝覧」絵巻とは、文化2年(1805年)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰(ふかん)し、江戸時代の町人文化を克明に描いた貴重な絵巻物(作者不明)で、原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。今回の複製絵巻の設置により、日本でも「熈代勝覧」を鑑賞することが可能になりました。
 「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、本絵巻には「熈代勝覧 天」と記載されており、「天地人」の全三巻の可能性がありますが、他の巻は現在所在不明です。題字は当時著名な書家であった佐野東洲の描いたもので、絵巻には沿道にある88軒の問屋や店に加え、行き交う1,671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽ならびに屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗、などが克明に描かれています。なお、1806年の「丙寅(ひのえとら)の大火」で建物の多くは焼失したとされており、その直前の貴重な記録といえます。
 名橋「日本橋」保存会および日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会は「熈代勝覧」を日本橋の歴史、文化を後世に伝える貴重な作品と捉え、ベルリン国立アジア美術館から制作、設置の許可を得て、江戸東京博物館による全体監修のもと複製いたしました。
 複製絵巻の絵画部分は、江戸東京博物館が所蔵するカラーポジフィルムから約1.4倍に拡大した印刷用の画像データを作成し、原画を忠実に再現するため和紙にも鮮明な印刷が可能なプリンタを使用し、和紙8枚に出力した後、1枚仕立てに加工しました。絵画を囲うパネルには、建物や職業、商売など江戸時代の町人文化に関する解説を記載しています。「熈代勝覧」の描く範囲(画像リンク)  (「三井不動産|『熈代勝覧』の複製絵巻「三越前」駅地下コンコース壁面に」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図

カメラ位置は地下鉄銀座線A3出入口前で、この先地下コンコース北側に「熈代勝覧」の複製絵巻が設置されている。

熈代勝覧(wikipediaの紹介文)
[『熈代勝覧』(きだいしょうらん)は、文化2年(1805年)の江戸日本橋を描いた絵巻。作者は不明。縦43.7cm、横1232.2cmの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街とそれを行き交う人物が克明に描かれる。1999年にドイツで発見され、化政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目された。
描かれた地域
日本橋川に架かる日本橋から竜閑川に架かる神田今川橋までの南北約7町、764mを東から俯瞰(ふかん)する。現在の中央通りに当たるこの通りは当時通町と呼ばれた。現在では三井グループなど大手企業のオフィスビルが立ち並び、ビジネス街としての性格も強いが、当時は問屋が隈なく立ち並ぶ江戸一の商店街であった。
描かれている町は絵の右、即ち北から日本橋本銀町二丁目(通白銀町)、日本橋本石町二丁目(通石町)、本石町十軒店(十軒店)、日本橋本町二丁目(通本町)、日本橋室町三丁目、同二丁目、同一丁目である。()は画中の表記であるが、日本橋通沿いは「通」の冠称を付けて俗称されていた。昭和初期の町名整理を経て、現在では全体が日本橋室町一~四丁目に含まれる。
店舖
絵には88軒の問屋が登場するが、暖簾は屋号が判別できるほど精緻に描かれており、当時通り西側に出店していた店舖の一覧を知ることができる。文政7年(1824年)2月の『江戸買物獨案内』にはこのうち4分の1の店舖が掲載されているが、住所が食い違う所も多く、入れ替わりの激しさを偲ばせる。
町屋は庇の有無、土蔵と白漆喰の違いなど外見上の特徴が細かく描き分けられているが、類似作である『江戸風俗図巻』のように店内部を透視するように描くことはせず、あくまで写実に徹している。町屋の間から裏店に至る路地の存在が示されていることも特徴である。
有名店舖も多数登場する。現在も三越として残る呉服店越後屋は道から少し入った駿河町に本店を構えるが、当地の定番として欠かせなかったためか全体が余す所なく描かれており、通り沿いにも系列店や蔵を多数構えている。現在も室町で打刃物問屋として営業を続ける木屋は室町二丁目に4店舖並んで見えるが、その内木屋幸七は工事中で、「普請之内 蔵ニ而商売仕候」の札を掲げている。大手書肆須原屋も善五郎と市兵衛の2店舗が見える。正規の店舖のほか、木戸番が非正規に営む商番屋が描かれている点も注目される。
人々
絵には総計1671人が描かれるが、このうち女性は200人と性比がかなり偏っている。
日本橋に近いほど人が多く、実際の混雑の分布が反映されているとみられる。買い物客の外、振売辻占読売など路上の商人、六十六部勧進僧などの僧侶、寺子屋に通う親子など様々な人種が活き活きと描かれている。
人以外にも、野犬20匹、馬13頭、牛車4輌、猿飼の猿1匹、鷹匠の鷹2羽が描かれている。
年代
室町二丁目付近の勧進集団の一人が「文化二/回向院」と書かれた勧進箱を舁いでいることから、絵は文化2年(1805年)の設定であることがわかる。描かれた日本橋界隈は翌年3月4日の文化の大火で全焼しているが、店舖の配置は大火前のものであることから、実際に参考にした風景も文化2年頃のものと考えられる。
季節については、例年2月末から3月初めに出店される十軒店の雛市が見られるので初春と考えられるが、日本橋魚河岸の鰹や日本橋川に遊ぶ子供に注目し、特定の季節が意識されているわけではないとする見方もある。
製作年代については、題字を書いた佐野東洲が文化11年(1814年)3月10日に没していることから、少なくともこれは下らない。
作者
題字には署名がないが、「左潤之印」の白文方印及び「東洲」の朱文方印があり、書家佐野東洲の手によることがわかる。奇しくも日枝神社に同じく文化2年佐野東洲によって揮毫された「山王大権現」の扁額が残されているが、こちらには「東洲左潤拜書」の署名がある。
絵師を示すものは何もなく、現在のところ不明である。佐野東洲は文化初年に一時期山東京山を婿養子にとっていることから、その兄であり、北尾政演の名で絵師としても活躍した山東京伝ではないかと見る説が一般的である。また浅野秀剛は作風や活動時期から消去法的に勝川春英を導き出しているが、いずれも推測の域を出ない。
題字には「熈代勝覧 天」とあることから、もとは「天」「地」の二部作、或いは「天」「地」「人」の三部作であった可能性が高いが、これらの消息は不明である。他の巻は同じ通りを反対の西から俯瞰したものか、日本橋より南側の同じ通り又は交差する本町の通り、若しくは隅田川吉原遊廓など江戸の他の名所を描いた可能性もあるが、いずれにしても現存すれば貴重な史料となることは間違いなく、発見が熱望されている。  (wikipedia・熈代勝覧より)]

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