与謝蕪村居住地跡

マーカーは与謝蕪村居住地跡案内板です。

与謝蕪村居住地跡
[夜半亭-与謝蕪村居住地跡-

所在地 中央区日本橋室町4丁目5番
       日本橋本町4丁目2番付近

夜半亭は、元文2年(1737)に俳諧早野巴人(はやのはじん・1676~1742)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵である。「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿」と号しました。
この夜半亭には、多くの門弟が出入りしていましたが、なかでも「宰町」と号していた若き与謝蕪村(1716~83)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。
蕪村は、安永3年(1774)巴人33回忌追善集「むかしを今」の序文で「師やむかし、武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老の寝ざめのうき中にも、予とともにはいかい(俳諧)をかたりて」と夜半亭での巴人との様子を記しています。
寛保2年(1742)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、常総地方などを歴訪後、京都を永住の地と定めます。
やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅と並び称されるほどになった蕪村は、明和7年(1770)巴人の後継者に推されて京都で夜半亭二世を継承した。

平成19年10月 中央区教育委員会  (「日本橋 石町時の鐘 鐘撞堂跡|芳村直樹のブログ – アメブロ」より)]

[与謝 蕪村(よさ ぶそん、享保元年(1716年) – 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。
摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。だがそれ以上の詳しいことはわかっていない。
20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。
寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
その後、丹後を歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚し一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。
京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。
与謝蕪村(呉春作)・wikipedia-photo、鳶鴉図(重要文化財) 紙本着色・wikipedia-photo、「与謝蕪村の生誕地・句碑(大阪市都島区)」・wikipedia-photo、「与謝蕪村邸宅跡・終焉の地(京都市下京区)」・wikipedia-photo、与謝蕪村の墓(京都市左京区)・wikipedia-photo、蕪村筆 俳画 自画賛(岩くらの狂女恋せよほととぎす)・wikipedia-photo、蕪村筆 柳陰漁夫図・wikipedia-photo、夜色楼台図(国宝)・wikipedia-photo、十宜図のうち宜暁図(国宝)・wikipedia-photo  (wikipedia・与謝蕪村より)]

与謝蕪村旧居・夜半亭跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向に与謝蕪村居住地跡案内板があります、また、左方向に「石町時の鐘 鐘撞堂跡」案内板があります。