マーカーは両国橋です。
両国橋
[両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。
両国橋全景・wikipedia-photo、1875年完成の最後の木橋時代の両国橋・wikipedia-photo、葛飾北斎 「冨嶽三十六景色 御厩川岸 両國橋夕陽見」・wikipedia-photo (wikipedia・両国橋より)]
両国
[本来、両国とは隅田川西側の武蔵国側の称であり、元禄(1688)時代からの本所深川開発以降、現在の両国である旧下総国側(墨田区側)を東両国(向う両国とも)と呼ぶようになった。両国の北に隣接する柳橋も含め、両国は江戸屈指の歓楽街として栄え、特に両国橋西詰の両国広小路は見世物などの小屋が立ち並んで賑わった。明治11年の東京市15区創設後西側を日本橋両国、東側を本所東両国という言い方ができてきた。近年、中央区側を西両国という表現をするのは適切ではない。本所、深川は旧来の下町(芝、京橋、日本橋、神田)からは「川向こう」であり、旧来の下町側から新興の東側を侮蔑的に見るところから西側の本家の両国、川向こうの格下の東両国(向う両国)という感覚が定着したと思われる。両国は隅田川をはさんで西、東が対等ではなくあくまで西側が本家で優越だったと考えられる。その後、両国駅の開業や両国国技館の開館にともない、両国という地名はおもに東両国を指すようになっていったと考えられる。
両国花火
1732年(享保17年)に起こった全国的な大飢饉(いわゆる享保の大飢饉)や江戸におけるコレラの流行を受けて、八代将軍徳川吉宗が死者の弔いと悪病退散を願って両国にて水神祭と施餓鬼を行った。この際に花火を打ち上げて川開きを同時に行ったことが両国花火大会の始まりといわれている。1733年(享保18年)5月のことであった。担当した花火師が両国の篠原弥兵衛、有名な「鍵屋」六代目である。後にこの鍵屋から暖簾分けした「玉屋」が加わり、それぞれ両国を挟んで上流側・下流側を担当した。花火を打ち上げるたびに「たまやー かぎやー」という掛け声がかかるのは、この競演に由来する。 (wikipedia・両国_(墨田区)より)]
両国橋の架橋については「東京都中央区立京橋図書館 – 郷土室だより – 中央区の”橋”(その1)」がおすすめ。そこからのコピー図。
両国橋界隈の歴史は、「七味発祥の地『両国橋界隈・江戸の歴史』」がお勧め。
「東京都立中央図書館 – 隅田川両岸一覧図絵 上、 隅田川両岸一覧図絵 下」より。
両国橋西岸
両国橋東岸
「国立国会図書館デジタルコレクション – 増補江戸大絵図絵入(延宝9年・1681年)」(コマ番号4/5・絵図中央左方向、隅田川に一橋だけ描かれている橋が、初架の両国橋で、この年、この橋は流失してしまいます。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – ゑ入江戸大繪圖(貞享4 [1687])」(コマ番号4/6・絵図中央左方向に両国橋の仮橋が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸大絵図元禄十二(1699)年」(コマ番号4/5・絵図中央左方向に復旧後の両国橋が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右上に両国橋・両国広小路が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図左上に両国橋が描かれています。)
「東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国日本橋区濱町及本所区相生町深川区常磐町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図上隅田川に両国橋の旧橋が両岸に両国広小路が描かれています。)
「東京市日本橋區全圖 : 明治四十年一月調査 – (題箋)番地入東京市日本橋區全圖(明治40・1907年)」(地図右上に現在の位置に両国橋が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「両国橋-1」(2-3)、「両国橋-2」(2-4)
両国橋-1(「拡大図)
両国橋-2(拡大図)
「東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「両国納涼」(3-12)、「盆市」(4-9)
両国納涼(拡大図)、
盆市(拡大図)(「Edo-CoCo – 江戸の盆」を参考に両国広小路を盆市の場所としました。)
「江戸遊覧花暦. 巻之1-4 / 岡山鳥 編輯 ; [長谷川雪旦] [画]」・「両国橋納涼」(2-21)、「両国橋解説-1・右ページ6行目より」(2-20)、「両国橋解説-2・左ページ左から4行目まで」(2-22)
両国橋納涼(「拡大図」
狂歌江都名所図会 – 回向院・こり場(拡大図)
狂歌江都名所図会 – 両国橋(拡大図)
狂歌江都名所図会 – 両国橋下(拡大図)
絵本江戸土産 – 両国橋(拡大図)
絵本江戸土産 – 両国の晩景 川花火(拡大図)
「東都名所」(「両国橋夕涼全図」、「両国橋夕涼全図-2」、「両国橋夕涼全図-3」
葛飾北斎 – 新板浮絵両国橋夕涼花火見物之図(拡大画像リンク)
[大判錦絵 天明年間(1781-89)頃
北斎は、春朗時代に本図も含めて11種の浮絵うきえを発表しています。浮絵とは、西洋の線遠近法(せんえんきんほう)(透視図法(とうしずほう))を採り入れ、奥行きのある空間表現を強く打ち出した浮世絵の一様式です。本図も手前に盛り場の両国広小路りょうごくひろこうじ、中央に両国橋、その向こうに花火を配置して、隅田川すみだがわ一帯の広々とした空間を表現しています。なお、春朗の浮絵は評判がよかったようで、本図をはじめ多くの後摺(あとすり)(初摺(しょずり)に対し、再版(さいはん)以降の作品を呼ぶ)が残されています。 (「新板浮絵両国橋夕涼花火見物之図 – すみだ北斎美術館」より)]
カメラ西北西方向が両国広小路で、東方向が両国橋です。
カメラ北東方向・分離帯植え込みの中に両国広小路記念碑が設置されています。
カメラ南方向が現在の両国橋で、カメラ西方向が神田川(柳橋)です。
松之大廊下の刃傷(元禄14年[1701]以前の「元禄6年[1693]の「[江戸図]」・「ru11_01193_p0011.jpg」[元禄6年時点では、吉良上野介が屋敷替えになる土地は御竹倉となっていて、松平信望(5000石の旗本)の屋敷地にもなっていない。信望は元禄11年の勅額火事後の11月に本所御竹蔵跡地に屋敷(土地のみ)を拝領した。元禄14年(1701年)8月12日、信望は下谷の町野酒之丞のものだった屋敷を拝領し、本所屋敷から立ち去った。このあとの8月19日、吉良義央が江戸城お膝元の呉服橋からここへ移されてきた。(wikipedia・松平信望より)
また、絵図の両国橋が2箇所描かれ左側の両国橋が×になっている、「七味発祥の地「両国橋界隈・江戸の歴史」 – e-mansion IS」に『両国橋」は万治2年(1659年)架けられたが、天和元年(1681年)12月の水害で流失、元禄9年(1696年)完成したが、この地図の橋は「仮橋」で、浜町寄りに在った。』とあるので、この絵図は元禄9年(1696年)両国橋再建後、仮橋(両国橋)を×で消して再建をされた大橋を書き加えたもののようです。]