今川橋跡(主水井)

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マーカーは今川橋跡の碑です。

今川橋関連リンク – 「神田八丁堀跡

今川橋跡
[今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・竜閑川)に仮設されたのは天和年間(1681~83)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたのでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。神田堀は現在の千代田区神田中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。昭和25年(1950)龍閑川は埋め立てられ、三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。  平成4年4月吉日 今川橋由来碑]

[東山ビルの正面玄関を一歩外へ出ると、右側に「今川橋のあとどころ」と書かれた記念碑があります。これは、昭和51年5月8日に東山興業株式会社によって建立されました。
今川橋・・・・・この橋は、今はどこを探しても見出すことのできない過去のものとなりました。しかし、昔を知っている人には懐かしい、思い出の橋であったかと思います。東山ビル北側の細い道路-ビルの正面に向かって左側を境にして隣は千代田区になりますが、この細い道路の所を、昭和25年以前は竜閑川という川が流れていました。この川は宮城の外濠(常磐橋のあたり)から東に向かって流れ、このビルのあたりを経て昭和通りを横切り、浅草橋から柳橋へと流れておりました。古い歴史の資料を見ますと、江戸時代の掘り割りとして、元禄4年(1691)に人工的に造られたことが記録されています(竜閑川は当初、神田堀と呼ばれていました)。  (東山興業株式会社ホームページより)]

中央通り西側小路・今川橋跡の碑の由来板
[今川橋の由来
元禄4年(1691)この地、東西に掘割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。初めは神田堀、銀堀(しろがねぼり)、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と掘割の接点に住んでいたので竜閑川と呼ばれるようになった。
この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。
この掘割は、神田と日本橋の境界として11の橋梁があり、この地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。
昭和25年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され360年の歴史を閉じた。
平成元年1月吉日鍛冶町1丁目町会 場所提供社 江原富夫氏  (「龍閑川(竜閑川)跡 今川橋跡 山梨中央銀行東京支店 丸石ビルディング …」より)]

カメラ東南東方向・ビル角前に今川橋跡の碑があります。

カメラ位置は中央通り西側小路で、カメラ北方向に今川橋跡の碑があります。

今川橋資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」[絵図左側中程・竜閑橋からの流れ右側に今川橋跡と記述されている。]

江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・今川橋主水井.jpg今川橋(説明文)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「今川橋」(1-47)、「主水井」(1-48」、「今川橋解説・右ページ左から左ページ7行目まで」(1-46)

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