伊勢崎藩酒井家下屋敷跡

マーカーは伊勢崎藩酒井家下屋敷跡です。

関連リンク – 伊勢崎藩酒井家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP379・コマ番号233/553から伊勢崎藩屋敷の変遷について記載されています。P383・コマ番号235/553「下屋敷 蛎殻町」がこの地になります。

酒井下野守
[伊勢崎藩主、酒井下野守忠強である。在所は上州佐位郡伊勢崎、二万石の大名で、この下屋敷は相対替によって文政一〇(1827)年一二月二三日取得、元治元(1864)年五月晦日に上地している。坪数は一、二七〇坪。  (「19.切絵図考証六 安藤菊二(PDFファイル:1654.23 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号277/284「天保三(1832)年之形」の左ページ右下に酒井出雲守と記述されています。コマ番号278/284「天保十一(1840)年之形」からコマ番号281/284「当時(文久元年・1861年)之形」で酒井下野守と記述されています。)

酒井忠強
[酒井 忠強(さかい ただつよ)は、江戸時代末期の大名。上野伊勢崎藩の第8代藩主。雅楽頭系酒井家支流8代。
天保6年(1835年)12月4日、第7代藩主・酒井忠恒の四男として生まれる。嘉永4年(1851年)4月7日、父の隠居により跡を継いだ。幕末期においては譜代大名として外国船来航に備えての警護役や天狗党の乱鎮圧で貢献している。
しかし慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府にいち早く恭順して自ら謹慎することで、協力の姿勢を示した。このため、1000両の資金と500俵の兵糧を献上することで許されている。
慶応4年(1868年)6月25日、弟(実子とも)の忠彰に家督を譲って隠居する。  (wikipedia・酒井忠強より)]

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図四つ切右下・本多肥後守上屋敷右下に酒井下野守下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は中央区日本橋蛎殻町1丁目35南西角で、カメラ北方向が伊勢崎藩酒井家下屋敷跡になると思います。