マーカーは磐城平藩安藤家・佐倉藩堀田家上屋敷跡です。
磐城平藩安藤家関連リンク – 磐城平藩安藤家中屋敷跡、磐城平藩安藤家下屋敷跡(お茶の水女子大学・筑波大学附属高等学校・跡見学園)、坂下門
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP351・コマ番号219/553の磐城平藩上屋敷の変遷について記載されています。この場所は『濱町』上屋敷で、文化12(1815)年4月16日に大名小路の上屋敷が上地となり、濱町に上屋敷を拝領します。濱町上屋敷は安政5(1858)年9月26日、安藤信正の若年寄就任に伴い、上地となり西丸下に上屋敷を拝領します。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号263/284「文政十二(1829)年之形」、コマ番号264/284「当時(天保九年・1838年)之形」の左ページ右上に安藤對馬守(安藤信由)と記述されています。)
磐城平藩安藤家
[磐城平藩(いわきたいらはん)は、江戸時代に旧陸奥国の菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めた藩である。藩庁は磐城平城(いわき市平)。
浜通り南部は、平安時代末期から岩城氏が支配していたが、関ヶ原の戦いで西軍に就いた為に領地を没収された。岩城氏は、後に信濃中村藩(川中島藩)を経て出羽亀田(現在の秋田県由利本荘市郊外)に移転した。
磐城平藩は、鳥居、内藤、井上、安藤の各氏が治めたが、いずれも徳川将軍家の側近であった。又、磐城平藩は、幕末に公武合体を進めた老中・安藤信正の所領として知られている。
宝暦6年(1756年)井上氏の後に、美濃加納藩主・安藤信成が入封した。入封後、藩校施政堂を八幡小路に創設して藩士の子弟を教育した。漢学を主とし、撃剣を従とした。四書五経・国語・小学・通鑑・習字を中心に教え、後に、兵法・洋学も取り入れた。春秋2回の試験で成績優秀者には褒賞を与えた。明治4年(1871年)に廃止されるまで、磐城平藩の最高学府的な存在であった。
歴代藩主の中で最も有名な人物は、第5代藩主・安藤信正である。信正は桜田門外の変の後、老中として幕政を主導したが、文久2年(1862年)の坂下門外の変で失脚、強制隠居処分に処され、所領も4万石に削減された。
1868年の戊辰戦争では信正は佐幕派としての地位を貫き、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加入して明治政府軍と敵対した。しかし藩庁である磐城平城での攻防戦で敗北し、磐城平城は焼失して藩士は敗走した。 (wikipedia・磐城平藩より)]
佐倉藩堀田家関連リンク – 佐倉藩堀田家中屋敷跡、佐倉藩堀田家中(下)屋敷跡、佐倉藩堀田家下屋敷跡(聖心女子大学)
堀田備中守邸
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号265/284「萬延元(1860年)年之形」、コマ番号266/284「当時(文久九年・1861年)之形」の左ページ右上に堀田鴻之丞(堀田正倫)と記述されています。
時の老中堀田備中守(堀田正睦)は、安政5年(1858年)6月21日、松平忠固と共に登城停止処分にされ、6月23日には忠固と共に老中を罷免され、帝鑑間詰を命じられる。これにより正睦は政治生命を絶たれることになり、大老井伊直弼による強制的な隠居命令により、安政6年(1859年)9月6日、正睦は家督を四男の正倫に譲って隠居ます。上屋敷はこの後六本木の長府藩毛利家上屋敷地に屋敷替えとなります。)
佐倉藩堀田家
[延享3年(1746年)、出羽国山形藩から、堀田正亮(正信の弟である正俊の孫)が10万石で入封。老中首座をつとめ、1万石が加増されて11万石となる。その後は幕末まで堀田家の支配で定着した。
山形藩からの移封に伴い、堀田正信の弟・堀田正俊を祖とする堀田家の佐倉藩領は、下総国の印旛、千葉、埴生、海上、匝瑳、香取各郡のうち、上総国の山辺、武射、長柄、夷隅、望陀、市原各郡のうち、さらに出羽国村山郡にわたり、城付きで7万石、山形分領が4万石あったといい、山形の柏倉陣屋には相当数の家臣を常駐させていた。
幕末の藩主で老中を務めた堀田正睦は蘭学を奨励し、医師佐藤泰然を招いて佐倉城下の本町(現・佐倉市本町もとまち)に順天堂を開かせ、学問を奨励する。ペリー来航以降外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走するが、井伊直弼の大老就任で老中を罷免され蟄居した。 (wikipedia・佐倉藩より)]
下絵は「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸勝景〕大橋中洲之図(作者 歌川広重)」よりコピーしました。絵は中州から大橋を見た情景で、左の屋敷は時代から佐倉藩堀田家上屋敷と思われます。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 青標紙(コマ番号20/57)」より
歌川広重「〔江戸勝景〕大橋中洲之図」の屋敷の表門の形は、「青標紙」左上の形になります。]
[青標紙(あおびょうし)とは、江戸時代後期の幕臣・国学者の大野広城(権之丞・忍軒)が著した武家故実書。全2巻で、前編は天保10年(1839年)に成稿され翌年出版。後編は天保11年(1840年)に成稿されて翌年出版。
概要
江戸幕府に仕える武士に必要な知識である武家故実についてを編集して懐中用の小型折本としたもの。武家諸法度・御定書・軍令・軍役・勤番・武具・行列・関所通行・服制・鷹狩などに関する諸規定から成り、しばしば発生する疑問やそれに関する回答について老中や目付に対する伺書の書式を用いて解説している(書札礼の役目も兼ねる)。当時、江戸幕府は法令が一般に知られることを固く禁じていたため、大野も慎重を期して「300部限定」として刊行している。だが、大野の武家故実の研究がその規定に反する疑いが先著である『殿居嚢』・『泰平年表』刊行の段階で持たれており、『青標紙』の刊行で武家諸法度などの法令を掲載したことが決定的な証拠とされて、天保11年(1840年)6月9日大野は綾部藩に永預となり、著書は発行禁止とされ、刊行に関わった版元なども処分された。同年9月11日に大野は配流先にて憤死している。だが、刊行された書を完全に回収することは出来ず、大正時代に刊行された『江戸叢書』によって全容を知ることが可能である。 (wikipedia・青標紙より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右下に安藤長門守(安藤信正)上屋敷が描かれています。この後、安政5年(1858年)に安藤信正は若年寄(1858年-1860年)にその後老中(1860年-1862年)となり、西の丸下に屋敷替えとなり、この地に老中を辞職した堀田正睦(老中任期:1837年-1843年、1855年-1858年)が入ります。)
「東京都立図書館アーカイブ – 大名小路神田橋内内桜田之図(嘉永2[1849]/安政7[1860]改正刊)」(絵図西御丸下に安藤長門守(安藤信正)上屋敷が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図右下に堀田備中守(堀田正睦)上屋敷が描かれています。)
「東京都立図書館アーカイブ – 東都麻布之絵図(嘉永4[1851]/文久元[1861]改正)」(絵図四つ切左下・毛利甲斐守上屋敷が堀田相模守(堀田正倫)上屋敷になっています。)
カメラ位置は中央区日本橋浜町3丁目南角で、カメラ北方向が磐城平藩安藤家・佐倉藩堀田家上屋敷跡になります。(磐城平藩安藤家・佐倉藩堀田家上屋敷跡範囲:中央区日本橋浜町3丁目1~3,7~10,15,16,19,20)