マーカーは佐竹稲荷神社です。
関連リンク - 佐竹藩(秋田藩)江戸屋敷跡碑、秋田藩(久保田藩)佐竹家上屋敷跡、佐竹秋葉神社、秋田藩(久保田藩)佐竹家中屋敷跡、秋田藩(久保田藩)佐竹家蔵前中屋敷跡、向陵稲荷神社(秋田藩(久保田藩)佐竹家抱屋敷跡)、道灌山(秋田藩(久保田藩)佐竹家抱屋敷跡)、久保田藩佐竹家下屋敷跡(浩養園跡)、佐竹稲荷神社(久保田藩佐竹家梅田屋敷)、千秋文庫、久保田藩佐竹家亀戸下屋敷跡
佐竹稲荷神社
[現在、内神田3-10-1に鎮座せる佐竹稲荷神社は、寛永12年(1635)鬼門除けのため、秋田藩2代目当主の佐竹義隆公が、佐竹氏江戸上屋敷に勧請したことに始まる。秋田藩主の佐竹氏はその先祖、清和源氏の源頼朝の第三子、新羅三郎義光が元服の折、幼名を義実と称し、自らを「稲荷氏」と名乗り「稲荷三郎」と称していたことに端を発しているという。その後、天和2年(1682)のいわゆる「八百屋お七」の大火で、藩邸は下谷三味線掘に移ったが、屋敷のあったあたりは蝋燭町や皆川町、関口町の町屋となり稲荷神社は再建された。爾来佐竹家の家紋「扇に日の丸」を社紋とし、火伏の守護神として江戸府中より信仰を集めて来た。大正12年(1923)関東大地震で灰燼に帰し、現在地に移して再建されたが、昭和20年(1945)東京大空襲により再び焼失。昭和26年戦後復興の中、佐竹稲荷仮宮を設置、昭和27年(1952)宗教法人法により、 神社本庁に登記し、その祭祀は神田明神の神職が兼務し、その護持は地元有志に委ねられた。 (「大好き神田-内神田町々内会」より)]
「東京都立図書館 – 武州豊嶋郡江戸庄圖(寛永9[1632])」[絵図中央右方向・大橋と筋違橋の間に佐竹右京太夫(佐竹義宣)と記述されている。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 増補江戸大絵図絵入[出版年月日・延宝9(1681)年][絵図四つ切左上・「トキワハシ」と「筋違橋」の間に佐竹右京太夫(佐竹義処)上屋敷が描かれています。]
カメラ北方向が佐竹稲荷神社です。