八ッ小路(筋違門)

マーカーは(カメラ位置-1)です。

八ッ小路(筋違門)
[筋違の名称は、江戸城から上野寛永寺に続く御成道と、日本橋から始まり、本郷方面へと続く中山道がちょうど交差する場所なのでこう呼んだのだという。この筋違橋門を抜けて外濠の内に入ると広大な広場が現れる。ここは、前述の2つの筋の出入りを含む計8つの道が変則的に交差することから、八ッ小路(八辻ヶ原とも)と言われていた。  (「広重 Hiroshige 「名所江戸百景」 時空map」より。)]

[筋違見附門
筋違(すじかい)門は、寛永13年(1636)加賀百万石の三代藩主・前田利常が築いた。歴代将軍が大手門から神田橋門(江戸六口)を通り上野寛永寺や日光東照宮へ出向く「御成道」にあるので御成門とも呼ばれた。中仙道へは、日本橋からこの門を通過し濠の外に出ると左(西)に折れ、つぎに右(北)に折れて神田明神通り(本郷通り)を西に進む。この二本の道が筋違いで交差することから筋違門と名付けられた。  (「大江戸歴史散歩を楽しむ会 – 筋違御門」より)]

[万世橋の歴史は、1676年(延宝4年)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。当橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあった。すぐ南に筋違見附があった、というより、橋が見附の付属物であった。  (wikipedia・万世橋より)]

[筋違見附の内側を指す。見附とは江戸城外郭に設けられた城門で、警備のため門衛が置かれた。筋違見附は現在の神田須田町辺りにあり、神田口とも言う。明暦・天和の大火後、火除地を兼ねた広場が設けられ、ここから八方に道が通じていたことから八ツ小路、八辻小路の名が付いた。内神田から外神田、須田町から下谷への通路に当たるため通行量が多く、昼夜を問わず開門していた。神田祭の行列は、城内で将軍の上覧に供された後、竹橋門、常盤橋門を経て、最後に筋違門を通って神田明神へ帰った。  (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「八ツ広路 (やつこうじ)」より)]

八ッ小路(筋違橋御門)資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城見附図 2巻. [2]」(コマ番号59-62/68・筋違橋御門)
(拡大図)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図左上に八辻原ト云と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図左上に筋違御門が描かれています。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国神田区佐久間町及下谷区仲御徒町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図左下に昌平橋が描かれています。この橋位置は現在の万世橋になります。)
東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国神田区駿河台及本郷区湯嶋近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図右下に萬世橋が描かれています。この位置には現在は橋はありません。)

東京市神田區全圖 : 明治四十年一月調査 – (題箋)番地入東京市神田區全圖(明治40・1907年)」(地図中央・神田川に昌平橋、元昌平橋、萬世橋が描かれています。)

(幕末の筋違橋門・wikipedia-photo)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「筋違八ッ小路」(1-56)、「筋違橋説明」(1-55)
筋違八ッ小路(「拡大図)

「東都歳事記」・神田明神祭礼.jpg(祭礼行列が筋違門を抜けて進んでいる絵で、右中に大番所と筋違門、左上に神田明神、その下に昌平橋が、また右端の幟に「須田町二丁目 氏子中」と描かれている。)

東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「神田明神祭礼」(4-30)

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](筋違内八ツ小路 (旧万世橋駅付近)・wikipedia-photo)

カメラ北北東方向が、2013年(平成25年)竣工のJR神田万世橋ビルで、ここから北西方向昌平橋までが八ッ小路です。(カメラ位置-1)

カメラ位置は万世橋で、カメラ南西方向に昌平橋が見えます。万世橋と昌平橋の中間付近に江戸時代の筋違門(筋違橋)がありました。また、神田川南側の旧万世橋駅遺構を整備し、「mAAch ecute(マーチエキュート) 神田万世橋」が2013年(平成25年)9月14日に開業しました。

カメラ位置は旧万世橋駅前で、カメラ南方向に万世橋駅の案内パネルが設置されています。

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