加納藩永井家上屋敷跡

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関連リンク – 加納藩永井家中屋敷跡

[美濃厚見郡加納、三万二千石の城主『安政六(1859)年武鑑』に、「御詰衆、三万二千石、はま丁矢のくら」と載っている。この地の拝領は天保十(1839)年、『藩邸沿革』(P523・コマ番号305/553)に、
一、上屋敷、元矢ノ倉 
拝領天保十年六月五日 坪数三千三百四十五坪
屋敷書抜、天保十年六月十三日、津軽大隅守(陸奥弘前藩津軽順承)下屋敷、元矢ノ倉三千三百四拾五坪、永井山城守(永井尚典)。同書、天保十年九月三日、増山河内守(伊勢長島藩)屋敷之内振替、元矢ノ倉弐百四拾坪余 (『東京市史稿』市街篇四九 – 五二三頁)  (「16.切絵図考証三 安藤菊二(PDFファイル:985.47 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号250/284「当時(天保九年・1838年)之形」の絵図左ページ中央に津軽越中守(津軽信順)と記述されています。コマ番号251/284「当時(文久元年・1861年)之形」に永井肥前守(永井尚典)と記述されています。)

加納藩永井家上屋敷
[加納藩(かのうはん)は、江戸時代の日本で、美濃国厚見郡加納(現在:岐阜県岐阜市加納)を本拠地にして、美濃国中部(現在の岐阜県中南部)を領土とした藩である。藩庁は加納城
宝暦6年(1756年)、陸奥磐城平藩へ移された安藤信成に代わって武蔵岩槻藩主・永井直陳が3万2000石で入る。第4代藩主・尚佐若年寄に昇進し、第5代藩主・尚典は武家諸法度に倣って「条々」・「定」・「覚」から成る家中制度を制定し、家臣団の統制を強めた。最後の藩主・尚服大政奉還直前に若年寄に任じられたが、戊辰戦争では岩倉具定に帰順して新政府側に与した。明治2年(1869年)、版籍奉還により尚服は加納知藩事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で加納藩は廃藩となり加納県となった。
加納藩では和傘の生産が盛んで、年間50万本も生産されていた。  (wikipedia・加納藩より)]

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」[絵図中央右端・永井肥前守(永井尚典)上屋敷と記述されています。]

カメラ位置は金座通り/浜町公園通り交差点で、カメラ北方向が加納藩永井家上屋敷跡になります。