和泉橋・柳原土手跡

マーカーは和泉橋です。

和泉橋
[神田川に架かり、美倉橋から約400m上流にあります。神田岩本町・岩本町三丁目とJR秋葉原駅東口方面を結ぶ昭和通りにあります。江戸図を見ると、寛永年間(1632~1644)には「いつミ殿橋」とありますが、その橋名の由来は神田川の北側に藤堂和泉守の屋敷があつたためとも、和泉守藤堂高虎の創架によるとも伝えられています。たびたびの火災に焼失しましたが、明治25年(1892)に鉄橋となり、欄干唐草模様の中に「神田和泉」の文字が崩し模様で配されました。現在の橋は、大正5年(1916)3月12日の架設、長さ35.8m、幅44.0mの鋼橋です。別名として、「和泉殿橋」・「御入用橋」があります。  (「千代田観光協会ホーム – 和泉橋」より)]

[和泉橋
この橋を和泉橋といいます。「御府内備考」には藤堂和泉守屋敷前の通りに架かるゆえに呼名としたとあります。橋を渡った右側が和泉守の屋敷跡で、神田和泉町の町名が残っています。
神田川の南岸沿いには、柳を植えた土手が築かれていたので、この辺を柳原といい、橋の北側一帯を向(むこう)柳原といいましたが、明治初年ごろに、柳は枯れたり取り除かれ、また関東大震災後の区画整理で、土手も平になりました。橋はたびたびの火災で焼けましたが、明治25年(1892)に鉄橋となり、欄干の唐草模様の中に、神田和泉の文字が崩し字模様になっていました。
大正5年(1916)に鋼橋に架け替え、さらに昭和2年(1927)帝都復興事業の一環で拡張されました。長さ35.8m。幅44m。鋼橋。
    平成元年3月 千代田区教育委員会
柳原土手跡
江戸名勝志」に”柳原土手西は筋違橋(元の万世橋)より東は浅草橋迄の間、長さ十丁余(約1.1km)つづけり。柳樹多くあり”とあり、昔このあたりは土手で柳の並木がありました。「柳森神社記”によると長禄2年(1458)太田道灌江戸城鬼門よけに、柳を植えさせたとあります。又享保(1716~35)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたのだともいいます。
昔は町屋が土手の南側下まで並んでいたので、土手上を人は通行していました。寛政6年(1794)幕府は土手沿いの人家を取りはらい火除地とし、この明地にその後老中松平定信は、凶災に備えてお救い米を貯蔵する籾蔵を建てました。安政3年(1856)この籾蔵は葛飾郡小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地に又町屋ができました。柳森稲荷(柳森神社)は土手下にあって元禄8年(1695)はじめて社が完成し繁昌したといいます。故に稲荷河岸とも呼ばれていました。関東大震災(1923)で社殿は焼失しましたが再建され境内に力石などが残っています。又土手は昔、葭簀張(よしずばり)の古着屋、古道具屋が店を並べていたそうです。明治6年(1873)土手は崩されました。
    平成元年3月 千代田区教育委員会  (「神田界隈の寺社とモダン建築・1 和泉橋~海老原商店~岡昌裏地ボタン店 」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」(絵図上・神田川に「和泉橋」が描かれています。)、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「柳原堤」(1-60)、「神田川解説・左ページ中程」(1-55)
柳原堤(拡大図)

[絵図は上段と下段では方向を変えて描かれている。上段は和泉橋から浅草橋方向。下段は柳原稲荷を南方向から描いています。]

狂歌江都名所図会 – 柳原土手(拡大図)

狂歌江都名所図会 – 柳原土手其二(拡大図)

絵本江戸土産 – 柳原 河岸通(拡大図)

カメラ位置は和泉橋です。

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