大門通(元吉原)

マーカーは大門跡です。

大門通
[靖国通り岩本町交差点と人形町通りの交差点を一本東に行った南北に走る通りが大門通りで、この道を南に行けば人形町元吉原の大門(おおもん)に出る道なのです。元吉原は40数年の寿命でしたし、新吉原に引っ越して350年以上経っていますので、今は元吉原の感覚はありませんし、そのような街並みもなく、大手の入ったビルが建ち並びその風情は皆無です。その西側の人形町付近は江戸風情を残した老舗も多くあります。  (「第232話・落語「猫忠」(ねこただ)」より)]

[岩本町二丁目のこの地域は、「元岩井町」と名付けられました。「岩井」という町名は、四代将軍徳川家綱のころ、代々将軍の甲冑を作っていた岩井与右衛門から名付けられました。もともとは、文京区湯島にありましたが、天保(てんほう)3年(1683)の火事でこの地に移り、天保11年(1698)に町となりました。また、享保(きょうほう)6年(1721)に、町の一部が火除地(ひよけち)になったため、岩井町の一部は柳原土手下に移りました。新しくなった町は町名を「柳原岩井町」としたので、残った岩井町は、「元岩井町」と呼ぶようになりました。 この町の北側には、藍染川(あいぞめがわ)が流れていて、大門通りの交差点付近で大きく曲がっていました。その部分にまたぐようにかけられた「弁慶橋」は、江戸名物の一つだといわれています。今は藍染川は埋め立てられ、橋の跡もありません。大門通りは、昔、吉原町の大門に通じていたことからついた名前です。下のうき世絵には、「かな物や、馬具師が多かった」と書かれています。町会の南東側には「金物通り」があります。金物の神様といわれる金山神社があり、むかしは金物問屋でにぎわっていたそうです。  (「⑩岩本町二丁目岩井会 – 東京都千代田区立和泉小学校」より)]

元吉原
[徳川家康天正18年8月1日(1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸は俄かに活気付き、鎌倉以来の関東の武士の都となった。家康は東海地方から多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる(江戸初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある)。そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。
江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初、幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として、陳情した際に、
 1.客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。
 2.偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。
 3.犯罪者などは届け出る。
という3つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から5年後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。しかし、寛永の頃までは、遊女が評定所に出向いてお茶を出す係を務めていた。結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある。
このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、日本橋葺屋町続きの2丁(約220メートル)四方の区画で、海岸に近くヨシが茂り、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。吉原移転後、跡地には難波町、住吉町、高砂町、新和泉町が出来た。現在の日本橋人形町2、3丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりである。
寛永17年(1640年)、幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止した。このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだった。  (wikipedia・吉原遊廓#元吉原より)]

東京都立図書館 – 武州豊嶋郡江戸庄圖(寛永9[1632])」[絵図四つ切右下・材木御蔵屋敷上方向の周囲が堀に囲われた場所が元吉原になります。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図四つ切左下に難波町、住吉町、高砂町、新和泉町が描かれています。]

「江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・大門通

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「大門通」(2-10)、「吉原町奮地解説-1・右ページ中程から」(2-9)、「吉原町奮地解説-2・右ページ左から2行目まで」(2-11)

カメラ位置は大門通北端で、カメラ南東方向に大門通の標識があります。

カメラ位置は大門跡付近で、カメラ南東方向に大門があったようです。

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