マーカーは明治座です。
関連リンク – 高取藩植村家・小諸藩牧野家上屋敷跡(芝給水所・駐日オランダ王国大使館)、小諸藩牧野家下屋敷跡
[信州小諸、一万五千石の城主。当主は康済。元矢ノ倉の中屋敷は、安政五(1858)年に拝領した。『藩邸沿革』(P780・コマ番号434/553より)に、
一、中屋敷 元矢ノ倉
相対替安政五年十二月廿日坪数三千九百四拾坪。
相対屋敷書抜、安政五年十二月廿日佐竹壱岐守(出羽国岩崎藩佐竹義諶)中屋敷、元矢ノ倉三千九百四拾九坪牧野遠江守え、同人下屋敷、浜町河岸四百坪之内三百坪斎藤辰吉え、六方相対替(若年寄就任ニ付新設) (「17.切絵図考証四 安藤菊二(PDFファイル:1010.46 KB)」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号249/284「文化五年(1808)之形」の絵図左ページ中央下に佐竹壱岐守(佐竹義知)と記述されています。コマ番号251/284「当時(文久元年・1861年)之形」に牧野遠江守(牧野康哉)と記述されています。)
牧野康哉
[牧野 康哉(まきの やすとし)は、文政元年(1818年)10月17日、常陸笠間藩主牧野貞幹の次男として江戸日比谷で生まれる。幼少時より聡明であり、西洋通で知られた。小諸藩の第8代藩主牧野康命の養子となり、天保3年(1832年)に康命が死去したため家督を継ぎ、従五位下・遠江守に叙位・任官する。
天保の大飢饉で藩内に大被害を受けると、育児法を制定して子女の救済に積極的に努めた。また、当時は天然痘が流行していたが、康哉は藩医を江戸に派遣して種痘を学ばせ、種痘を信用しない領民のため自分の娘に種痘を行なうことで納得させ、そのうえで種痘を領民に行なったとされている。ちなみにこれは日本初の種痘の実施である。
安政2年(1855年)には農村救済のために農村復興方を設置した。さらに家臣に二宮尊徳の報徳仕法を学ばせて実施したり、凶作に備えて貯蓄を行なうなどしている。産業の奨励も行ない、領内の小県郡長瀬・立岩などで和紙の製造業が盛んになったのも、康哉の時代からである。
これら一連の藩政の成功は幕府からも高く評価され、安政5年(1858年)には若年寄に任じられ、将軍継嗣問題では井伊直弼を支持し、直弼のブレーンとして幕府の中枢で活躍した。文久3年(1863年)6月13日に死去した。享年46。跡を長男の康済が継いだ。
康哉の業績は高く評価されており、懐古園には「牧野公遺徳碑」が建設されている。 (wikipedia・牧野康哉より)]
「国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図四つ切右下・永井肥前守上屋敷左下に牧野遠江守(牧野康哉)中屋敷が描かれています。)
カメラ位置は明治座の北側で、カメラ位置周辺が小諸藩牧野家中屋敷跡になると思います。