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斎藤月岑
[神田司町二丁目、神田淡路町交差点と神田児童公園の中間地点(外堀通り沿い)に「斎藤月岑居宅跡」の石碑があります。斎藤月岑は、文化元年(1804)にこの地(神田司町二丁目)で生まれました。斎藤家は代々、神田の雉子町・三河町三丁目・同裏町・三河町四丁目・同裏町・四軒町の六ヶ町を支配する名主でした。15歳で家督を継ぎ、九代目・市左衛門と称し、実名を幸成といいました。祖父幸雄・父幸孝が手がけた大書「江戸名所図会」を完成させたほか、「東都歳事記」・「武江年表」など、今日、江戸の町人文化を研究する上で欠くことのできない多くの著作を残しています。「江戸名所図会」は江戸とその近郊の神社、仏閣。名所、旧跡の由来や故事などを絵入りで説明したものですが、江戸研究にはなくてはならない貴重な書物です。斎藤月岑は江戸を代表する文化人であり、神田の誇りでもあるのです。なお、記念碑は、旧江戸城外濠の石垣の石が使われています。 (千代田区観光協会ホームページより)]
[斎藤 月岑(さいとう げっしん 文化元年(1804年) – 明治11年(1878年)3月6日)は江戸の町名主、考証家。『江戸名所図会』『武江年表』など、江戸の町についての基本資料を著述したことで知られる。神田の町名主の家に生まれた。名は幸成、九代目斎藤市左衛門。斎藤家は徳川家康の江戸入府(天正18年(1590年))以前からの名主であり、草創名主として江戸幕府からも一目置かれていた家柄である。文化15年(1818年)3月9日、父が47歳で急死すると、15歳で家を継いだ。以後、町名主を続けながら精力的に著作を続けた。晩年は2度にわたる妻の死や、養子との確執とその急死などで家庭的には恵まれなかったともいう。幸雄・幸孝・幸成三代の墓所は上野の法善寺にある。神田司町2丁目には月岑の記念碑(淡路町交差点と神田児童公園の中間)がある。 (wikipedia・斎藤月岑より)]
[江戸名所図会(えどめいしょずえ)は江戸時代後期の天保年間に斎藤月岑が7巻20冊で刊行した、鳥瞰図を用いた江戸の名所図会(地誌紀行図鑑)。長谷川雪旦の挿図も有名。
神田の町名主であった斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)の3代にわたって書き継がれたもの。長秋は京都の地誌である『都名所図会』に刺激を受け、寛政期に編纂を開始。8冊本として刊行予定で、1798年に出版許可も得ていたものの、1799年(寛政11年)、長秋は63歳で病死(当初、『東都名所図会』という題であったともいわれる)。後を継いだ婿養子の莞斎は郊外分などの追補に努め、長谷川雪旦に画を依頼した。1818年(文化15年)に莞斎が死去し、その刊行は月岑に託された。
前半1–3巻(10冊)は1834年、後半4–7巻は1836年(天保7年)に刊行された(全7巻20冊)。日本橋から始まり、江戸の各町について由来や名所案内を記し、近郊の武蔵野、川崎、大宮、船橋などにも筆が及んでいる。江戸の町についての一級資料である。 (wikipedia・江戸名所図会より)]
「江戸名所図会」のデジタル図書へリンク・「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」、「国立国会図書館のデジタル化資料 – 江戸名所図会 7巻. [1]」
カメラ東方向・ガードパイプそばに斉藤月岑の顕彰碑があります。
斉藤月岑の顕彰碑(Google Map 画像)
斉藤月岑の顕彰碑文(Google Map 画像)