本小田原町

マーカーはカメラ位置(日本橋本町1/日本橋室町1)です。

本小田原町(現日本橋本町1、日本橋室町1)
[近世江戸の城下には、二つの小田原町が存在しました。初めに成立したのが日本橋北詰の「小田原町」で、町の名は小田原の石工善左衛門が当地を石揚場(舟で運んだ石材を荷揚げする所)として拝領したことが起源だと伝えています。善左衛門は小田原城下の大窪(現小田原市板橋)に住んだ石工で、戦国時代には北条領国の石切棟梁に任命され、配下の職人等を指揮して活躍しました。天正18年(1590)の北条氏滅亡後は、その技量を徳川家康に認められ、慶長年間(1596-1615)のはじめ頃から、本格化する江戸城の普請や城下の町割りに用いる大量の石材の運搬や加工に従事しました。これらの石材は、小田原から伊豆半島にかけての広範囲で採石され、江戸日本橋の「小田原町」は各地から船で搬送された石材の陸揚げ場として賑わい、善左衛門をはじめ、配下の石工が数多く居住したものと考えられます。やがて「小田原町」に魚市場(日本橋魚河岸)が開かれ、石揚げ場は築地に移転して「南小田原町」と称したため、日本橋北詰の「小田原町」は「本小田原町」と改称しました。一方の「南小田原町」の成立については、先述した石工の移住に拠るとの説のほか、寛文4年(1664)に日本橋「小田原町」の魚問屋等が江戸幕府の許可を得て開発したとも伝え、「南小田原町」にも多くの魚商が移住し、「本小田原町」一帯の日本橋魚河岸に対抗しました。  (「新規収蔵資料 – 小田原市」より)]

[小田原町は、慶長年間、江戸城拡張の際、築城経験豊かな石工善右衛門という人を、小田原城下から呼寄せ、この地を石置場として与えたので、小田原河岸と呼ばれ、後に町名となった。
一方、天正18年に大坂から関東に下った佃村の漁師、森孫右衛門支配の漁師達は、小網町辺に住居して、御膳白魚上納と、将軍遊覧の際の網曳御用を勤めることになったが、孫右衛門の二男九左衛門は上納残りの魚を販売するために、本小田原町に、魚問屋の出店を出すことを許され、これが後来魚市場に発展する基盤となった。
元禄以来、小田原町は魚市場として繁栄をきわめ土地は乾く間もなく、いつも長雨が降った後のようにぬかるんでいたので、若手衆中はぬかるみを嫌って足駄を常用していた。表は上物の島桐を用い、の木のさし歯をさし、皮鼻緒をすげたいかつい下駄で、俗に「小田原下駄」といわれたものだった。  (「中央区立図書館 – 10.中央区名所名物句集二 安藤菊二輯(PDFファイル:982.52 KB)」より)]

資料リンク
国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図四つ切左下・室町一丁目、二丁目右に本小田原町が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第一 日本橋区全図 – 特別区協議会

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