桑名藩松平(久松)家中屋敷跡

マーカーは桑名藩松平(久松)家中屋敷跡です。

関連リンク – 桑名藩松平家上屋敷跡桑名藩久松松平家下屋敷(浴恩園)跡(元中央卸売市場)桑名藩松平家抱屋敷跡桑名藩松平家抱屋敷跡(大塚公園、住吉稲荷社)桑名藩松平(久松)家下屋敷跡(松平定信海荘跡)

[桑名藩松平(久松)家中屋敷跡であるこの地には、御府内沿革図書. 第一篇下を見ると、コマ番号242/284「延宝年中(1673年-1681年)之形」、コマ番号243/284「天和年中(1681年-1684年)之形」で左ページ下に御材木蔵、コマ番号244/284「貞享年中(1684年-1688年)之形」では稲垣安芸守(近江山上藩稲垣重定)、コマ番号245/284「元禄年中(1688年-1704年)之形」、コマ番号246/284「宝永年中(1704年-1711年)之形」で米倉丹後守(下野国皆川藩米倉昌照)、コマ番号247/284「正徳五(1715)年之形」で、松平壱岐守、コマ番号248/284「明和八(1771)年之形」で有馬中務大輔(筑後国久留米藩有馬頼徸)と田沼主殿頭(遠江相良藩田沼意次)、コマ番号249/284「文化五(1808)年之形」で水野壱岐守(安房北条藩水野忠韶)と小笠原大膳大夫(豊前国小倉藩小笠原忠固)、コマ番号250/284「当時之形(天保九年・1838年)」で小笠原大膳大夫(小笠原忠固)、コマ番号「当時之形(文久元年・1861年)」で松平丹波守(信濃松本藩松平光則)と記述されていますが、桑名藩の拝領屋敷についての記述はありません。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切右上・薬研堀下に松平越中守(松平定猷)中屋敷が描かれています。この後この地は松本藩下屋敷になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 2号」(コマ番号2/6・絵図中央下右、薬研堀左に松平越中守中屋敷と記述されています。)

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図四つ切右上・薬研堀下に松平丹波守(松平光則)下屋敷が描かれています。)

松平定敬
[松平 定敬(まつだいら さだあき)は、江戸時代後期の大名。伊勢国桑名藩主。京都所司代。定綱系久松松平家13代。兄に尾張藩徳川慶勝一橋家当主徳川茂栄会津藩松平容保などがいる。いわゆる「高須四兄弟」の末弟である。
弘化3年12月2日(1847年1月18日)、美濃国高須藩主・松平義建の八男として江戸市谷の江戸藩邸で誕生。
安政6年(1859年)に桑名藩主・松平定猷が死去すると、長男・万之助(後の定教)が3歳と幼少、かつ妾腹の庶子であったため、14歳で定猷の正室の間に儲けた娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられ藩主となり、従五位下越中守に叙任される。
文久3年(1863年)の14代将軍・徳川家茂の上洛の際には、京都警護を勤めるために随行する。
元治元年(1864年)に京都所司代に任命され、京都守護職の実兄・松平容保(会津藩主)、朝廷から新設の禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命された元将軍後見職の一橋徳川家当主徳川慶喜と連携し、幕府から半ば独立して朝廷を援護する勢力を形成する(近年では一橋・会津・桑名の頭文字をとって一会桑政権と呼ばれる)。同年の禁門の変では会津藩と共に長州藩兵を撃退し、水戸天狗党の乱でも出兵している。髪を総髪にし、洋装で馬に乗り都大路を闊歩した。
慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると、慶喜に従い江戸霊巌寺にて謹慎した。江戸城では抗戦派と恭順派が争い、大久保一翁勝海舟により恭順工作が進められていた。さらに、桑名藩は会津と並んで新政府からは敵視されており(朝敵5等級の認定のうち、第1等が徳川慶喜、第2等が松平容保と定敬)、国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から、先代当主の遺児・万之助(定教)を担いで恭順することを家老たちが決めていた。そのため、徹底抗戦派と見られていた定敬の帰国は困難な状況となった。定敬は一翁から桑名藩の飛び地領である越後国柏崎へ赴くことを勧められ、横浜からプロイセン船「コスタリカ号」で柏崎へ渡る。鯨波戦争では後方連絡の都合から指揮を家臣に任せて柏崎から会津へ移動した。その後は会津若松城で兄の容保と再会し、仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡った。この頃、一色三千太郎(いしき みちたろう)と名乗っていた。
箱館戦争終結前の明治2年(1869年)4月、従者と共にアメリカ船に乗り横浜を経て上海へ渡るも、路銀が無くなったため外国への逃亡を断念して同年5月18日には横浜へ戻り降伏し、明治5年(1872年)1月6日に赦免される。同年2月に許嫁の初子と結婚した。同年3月、明治政府に対し、平民になることを願い出たものの、認められなかった。同年11月、明治政府から欧米視察の許可を得る。明治6年4月、病気のために海外視察の中止を申請する。
明治6年(1873年)にアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンが横浜市中共立修文館を設立すると、定敬は養子の定教と家臣の駒井重格ら数名を連れて入学し、ブラウンに英語を学ぶ。しかし、すぐにブラウンは共同経営社の川村敬三とトラブルがあり辞任することになる。定敬ら教え子はブラウンに私塾を開くよう勧め、ブラウンは定敬、駒井重格と元会津藩士井深梶之助らの尽力によりブラウン塾を開校する。開校時の塾生は定敬の家臣と井深ら10人前後だけだったが、その後、押川方義植村正久らが加わり20人以上になった。その中で、定敬と定教は明治7年(1874年)11月に、駒井重格は12月に渡米した。
明治10年(1877年)に起こった西南戦争には、旧桑名藩士を率いて遠征した。  (wikipedia・松平定敬より)]

カメラ位置は中央区立日本橋中学校南東で、中央区立日本橋中学校敷地内に薬研堀がありました。カメラ南南西方向が桑名藩松平(久松)家中屋敷跡になると思います。この地は後に松本藩松平家下屋敷となります。