マーカーは永久橋跡です。
永久橋
[永久橋の架橋年代は不明ですが、宝永元年(1704年)そう命名されたそうです。昭和46年(1971年)、箱崎川が埋立てられ、その跡地は首都高速道路に転用されます。 (「神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!: 箱崎川②」より)]
[今では想像もできないが、江戸時代の隅田川は洲が多い川だった。特に新大橋と永代橋の間には、中州と呼ばれる大きな洲があり、隅田川の一部は洲の西側の箱崎川のほうに流れて、永久橋の手前が水路が3つに分かれて見えるので三俣と呼ばれていた。この中州は寛政のころ大規模に干拓されて、遊興の場として大繁盛した時期があった。しかし干拓したことで隅田川の流れが悪くなり、上流で洪水が多発したとかで、松平定信によって全面撤去され、干拓地も一部が掘り下げられてしまい、繁華街としての幕を閉じた。 (「広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~ – Ameba」
中洲
[中洲はもともと文字通り隅田川の中洲であった。川が三方に分かれていた地点にあったため一帯はみつまた(「三派」「三ツ俣」「三つ股」など表記が多数存在する)とも呼ばれたが、具体的にどの流れを指したかについては諸説ある。また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目にあたるため、別れの淵と呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった。
1695年(万治2年)吉原遊廓の遊女高尾太夫が中洲近くの船上で吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話がある。
1771年7月27日(明和8年6月16日)馬込勘解由により浜町と地続きになるように埋め立てが行われ、1773年1月10日(安永元年12月18日)に中洲新地として竣工した。1775年(安永4年)には町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭めたために上流で洪水が頻発し、また奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって1789年(寛政元年)取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った。この時の土砂は隅田土手の構築に利用された。 (wikipedia・日本橋中洲より)]
永久橋資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」(絵図右下・田安殿下屋敷左上に「永久橋」が描かれています。)
「名所江戸百景」・みつまたわかれの淵(隅田川対岸から眺めた安政期の中洲。現在の中央区日本橋中洲付近の隅田川)「ファイル:100_views_edo_067.jpg」
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「新大橋三派」(2-12)、「新大橋・三派解説・ページ中央に新大橋、左ページ中程に三派」(2-13)
新大橋三派(拡大図)
[図会手前に新大橋、左に永代橋、右の流れが箱崎川で、描かれる橋が中州に架かる永久橋です。また、永久橋手前右に浜町川河口に架かる川口橋も描かれています。]
「中央区立図書館画像リンク・永久橋大正5(1916)年」、「中央区立図書館画像リンク・新永久橋昭和43(1968)年5月」、「中央区立図書館画像リンク・箱崎橋から新永久橋を望む-箱崎川船溜り-昭和32(1957)年」
カメラ位置は新永久橋跡前で、カメラ南南東方向に箱崎川に架かる新永久橋があった。江戸期の永久橋は、この位置から東方向の永久稲荷神社前の通りにあった。
カメラ位置は永久稲荷神社前の通りで、カメラ北北西方向に永久橋があった。