永井尚志屋敷跡

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永井尚志
[永井 尚志(ながい なおゆき)は、幕末旗本三島由紀夫の母方の高祖父にあたる。名前の読みは「なおむね」とも。
文化13年(1816年)11月3日、三河奥殿藩の第5代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれた。幼名を岩之丞、号を介堂といった。父の晩年に生まれた息子で、すでに家督は養子の乗羨に譲っていたことから、25歳の頃に旗本の永井尚徳(旗本2,000石)の養子となった。弘化4年(1847年)4月16日、小姓組番士となる。嘉永元年(1848年)、昌平坂学問所に合格。嘉永4年(1851年)2月、甲府徽典館学頭となる。嘉永6年(1853年)7月20日、十番小姓組番頭・牧野筑後守忠直組進物番士より二番徒頭に異動。10月8日、目付に異動し、海防掛を兼帯し、砲台普請・大砲製鋳等を併せて担当する。11月7日、布衣に遇せられる。安政元年(1854年)には長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。同年11月19日、従五位下・玄蕃頭に叙任。安政5年(1858年)にそれまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられた。そしてロシアイギリスフランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争い一橋慶喜を支持する一橋派に組したため、南紀派大老井伊直弼によって罷免され、失脚した。
直弼没後の文久2年(1862年)、京都町奉行として復帰し、元治元年(1864年)には大目付となる。文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。慶応3年(1867年)には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ逃げ戻り、その後は榎本武揚と共に蝦夷地へ向かって箱館奉行となり、新政府軍と戦った。しかし、敗れて榎本と共に自決しようとしたが、周囲に止められて降伏した。
明治5年(1872年)、明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、明治8年(1875年)に元老院権大書記官に任じられた。
明治24年(1891年)7月1日に死去した。享年76。  (wikipedia・永井尚志より)]

永井尚志屋敷資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」[絵図右下方向・浜町川左に永井能登守(養父・永井能登守尚徳と描かれています。永井能登守の上・永井肥前守中屋敷は(美濃国加納藩3万2千石)は永井能登守の本家になり、尚庸系永井家2代永井直敬(武蔵国岩槻藩初代藩主)の5男・尚方が分家して旗本・永井家を起こしました。]

永井尚志が勘定奉行・外国奉行時代使用した役宅
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」[嘉永3年(1850年)尾張屋版絵図右下方向・岩城伊予守の左、御勘定奉行役屋敷松平河内守は、尚志が勘定奉行(1857年12月 – 1858年7月)・外国奉行(1858年7月 – 1859年2月)時代役宅として使用していました。その後万延元年(1860年)から文久2年(1862年)まで蕃書調所となり、その後新見正興が外国奉行役宅として使用しました。]

カメラ南南西方向に永井尚志屋敷があったようです。

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