沼津藩水野家浜町下屋敷跡

マーカーは沼津藩水野家浜町下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP845・コマ番号466/553から菊間藩(沼津藩)屋敷の変遷について記載されています。P850・コマ番号469/553「上屋敷 濱町」がこの地になります。

[上総菊間藩(駿河国沼津藩)五万石の藩主、水野出羽守忠敬である。
この邸地はもと、浜松鶴舞藩子爵井上家)の上屋敷であった所で、『江戸藩邸沿革』に、
一、上屋敷 浜町
拝領、嘉永四(1851)年十二月廿八日、上地文久二(1862)年十月十二日、坪数三千六百六拾弐坪余。
年録、嘉永四年十二月廿八日浅草新寺町屋敷御用ニ付、家作共可被差上候。浜町内藤紀伊守(内藤信親)中屋敷家作共被下之、井上河内守(井上正直)、上地後菊間藩水野家屋敷ニ成ル、入替ナリ。坪数同藩の条参照
とあり。『同書』元沼津菊間藩、子爵水野家(旧封五万石)の浜町上屋敷の条下に、
拝領文久二年十月十一日、上地同年十二月。坪数三千六百六拾弐坪余、
 御沙汰留、文久二月十月十一日、大名小路屋敷家作共可被差上候、浜町井上河内守家作共被下之、水野出羽守。上地後、松平摂津守(松平義比後の徳川茂徳)屋敷ニ成。 (東京市史稿市街篇四九 – 八五〇頁)
と見えるものがこれである。
嘉永の切絵図には載っていないが、浜町に、水野家の中屋敷があった時代がある。『江戸藩邸沿革』に、
一、中屋敷 浜町
寛政呈譜、宝暦十(1760)年八月十五日、先達而差上候浜町屋敷、下屋敷ニ被下云々。
相対替屋敷書、文政十一(1828)年七月廿九日水野出羽守(水野忠成)添屋敷、矢之倉八百六拾五坪余、松平能登守(松平乗美)え、能登守下屋敷、浜町四千三百八十三坪外、御預地四百廿壱坪水野出羽守え相対替 (市街篇四九 – 八五二頁)
という記載がある。  (「18.切絵図考証五 安藤菊二(PDFファイル:1005.98 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号262/284「文化五(1808)年之形」の絵図中央上、組合橋右下に水野出羽守その下方向に松平能登守と記述されています。コマ番号263/284「文政十二(1829)年之形」で松平能登守が水野出羽守に含まれている。コマ番号264/284「当時(天保九年・1838年)之形」で拡充されています。コマ番号265/284「萬延元(1860年)年之形」、コマ番号266/284「当時(文久元年・1861年)之形」で、かっての松平能登守と拡充部分が細川越中守になっています。)

カメラ位置は中央区日本橋浜町2丁目3南西角で、カメラ東北東方向が沼津藩水野家浜町下屋敷跡になると思います。