マーカーは浜松藩井上家上屋敷跡です。
関連リンク – 浜松藩井上家下屋敷跡、浜松藩井上家深川下屋敷跡
浜松藩井上家
[浜松藩(はままつはん)は、江戸時代の藩の一つであり、遠江国敷知郡浜松宿(現在の静岡県浜松市中区)に所在の浜松城を居城とした。
藩主は、桜井松平氏、高力氏、大給松平氏、太田氏、青山氏、本庄松平氏、大河内松平氏、井上氏、水野氏といった譜代大名各氏が入部した。浜松藩の特徴としては、大名家の入れ替わりが非常に激しいことがあげられる。また江戸時代265年の間に藩主は22名で、約12年弱毎に藩主が変わっている。別名「出世城」としても知られ、その背景には徳川家康の成功譚をはじめ、老中や京都所司代など幕府の要職についた藩主を多数輩出したことがあげられる。
本庄松平家の松平資訓は宝暦2年(1752年)に死去し、新たに藩主となった松平資昌は宝暦8年(1758年)12月27日に丹後宮津藩に移封された。
代わって京都所司代として摂津・河内・播磨・近江などに所領を持っていた井上正経が6万石で入る。しかし第3代藩主・井上正甫時代の文化14年(1817年)9月14日には陸奥棚倉藩に移封された。
このため、肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。
代わって、井上正甫の後を継いでいた井上正春が、上野館林藩から6万石で入る。明治元年(1868年)9月、第2代藩主・井上正直は徳川家達が駿河・遠江・三河を支配する駿府藩主になったことから、上総鶴舞藩に移封され、これにより浜松藩は廃藩となった。 (wikipedia・浜松藩より)]
「国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」[絵図四つ切右下中央に井上河内守(井上正直)上屋敷が描かれています。]
カメラ位置は新大橋通り/浜町川緑道で、カメラ西方向が浜松藩井上家上屋敷跡になります。