浜町川跡・浜町河岸(蠣浜橋跡)

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    浜町川跡・浜町河岸関連リンク – 「鞍掛橋」、「緑橋跡」、「川口橋跡(浜町川跡)

    浜町川跡・浜町河岸
    [浜町川の水路は、元和年間(1615~24)に東日本橋三丁目辺りまで開削されたと言われる。そして、元和三年に庄司甚右衛門によって開業された吉原遊郭の周囲を、浜町川からの入堀が囲んでいた。その後、市街地の発展とともに水路が拡幅・延長され、元禄四年に龍閑川と合流した。
    その後、市街地の発展に伴って、江戸の中心地にあった吉原の移転が防火と風紀維持の必要から検討され、明暦三年(1657)の大火を機に、吉原は浅草田圃に強制移転させられる。そして移転先の遊郭が新吉原、吉原があった場所が元吉原と呼ばれるようになった。
    旧吉原の跡地は町地となり、旧江戸町二丁目が高砂町、旧京町二丁目が難波町、旧江戸町一丁目が新和泉町、旧京町一丁目が住吉町などとなる。そして遊郭を囲んでいた堀は竈を扱う商店が多かったことで、「竈河岸」と呼ばれた水路を残して埋め立てられた。この水路は、南にあった銀座で鋳造される貨幣の原料・資材の輸送路としても利用されていた。
    安政四年(1857)の龍閑川の埋立てとともに、浜町川も鞍掛橋から西側の水路が埋め立てられる。しかし、明治十六年の市区改正事業で再び水路が延長され、千代田区岩本町三丁目の先で神田川に合流した。
    浜町川に沿った日本橋浜町や同蛎殻町は、江戸期には武家地だったところで、大名屋敷や旗本御家人の邸地で占められていた。そのため、浜町川は大名の国許から送られてくる特産品などの輸送路として利用されていた。明治維新後は、旧藩主や政府高官の所有地となったが、関東大震災後に街並みは大きく変わり、復興事業で浜町公園清洲橋通り新大橋通りなどの幹線道路が建設されて、醤油問屋や砂糖問屋、瀬戸物問屋などが多く集まり、水天宮の参拝客を含めた、賑わいを見せる町となった。
    戦後になって浜町川は不用河川とされ、昭和二十六年に小川橋から西側の水路が埋め立てられる。
    昭和四十七年には残りの東側水路も埋め立てられ、首都高速道路浜町出口が建設されて、残りは緑道公園に改修された。  (「055中央区 日本橋浜町 日本橋浜町 浜町といえば二丁目の明治座。」より)]

    浜町緑道
    [今では暗渠となっている浜町川は、かつて大川(隅田川)に接し、物資輸送路などで賑わった堀割(人工的に水を通したところ)でした。
    この浜町川跡が、現在の浜町緑道(グリーンベルト)です。
    グリーンベルトの名に相応しく、様々な木々が植えられ、近隣の住民や会社員の憩いの場になっています。木々には植物園で見られるような銘板がかけられており興味を引きます。メモをとりながら歩いてみると30種類以上もありました。  (「浜町緑道コース | 東京日本橋 人形町 – 人形町商店街」より)]

    資料リンク
    国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」(絵図右に濱町川が描かれています。)

    カメラ位置は蠣浜橋跡で、カメラ南南東方向、北西方向が浜町川跡で、この付近は浜町緑道として整備されています。カメラ南南東方向に設置されている銅像は勧進帳の弁慶像です。

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