浮世小路、百川

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浮世小路、百川
[『江戸惣鹿子名所大全』(元禄3年・1690)に、「福徳稲荷 室町うき世小路」あります。
また、『続江戸砂子』(享保20年・1735)には「室町うきよ少路に在り」と記載されています。 うきよ小路(しょうじ、と加賀ことばで読みます)とは、日本橋大通りの室町3丁目から東に入る奥行20間ほどの小路であり、突き当たりは伊勢町堀からの堀留で、江戸時代中期以降には塩河岸(北側)に有名な料理屋「百川楼」がありました。
 浮世小路を加賀言葉で「うきよしょうじ」とも読むのは、古くは加賀出身者が住んでいたことに由来します。
 「百川楼」は明治のはじめ頃まで営業を続けていた江戸屈指の料理屋で、落語「百川」の舞台にもなっています。また、安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、使節団をもてなす料理を作りました。  (「福徳神社ホームページ百川と浮世小路」より)]

[嘉永7年(1854)2月10日、日米和親条約締結のための初交渉が行なわれました。このとき、伝統に基づいた本膳料理を2000両で仕出したと瓦版に書かれた当時の有名料亭はどこでしょう?
答は日本橋浮世小路の高級料亭「百川」です。
昨年の江戸文化歴史検定で出された問題でした。
百川が出来たのは明和安永(1764~81)の頃。天明(1781~87)には名の知られた卓袱料理屋となり、文化文政(1804~30)の頃には本膳料理の高級店として繁盛しました。1人分の食事代金は最安値で、現在のおよそ1万円相当といわれています。そんな百川も明治元年に廃業となってしまいました。日本橋室町2-2と2-4の間、三越本店の斜め向かい側。今は福徳神社がある場所が丁度百川があった所なのだそうです。  (「中央区観光協会特派員ブログ – 浮世小路 高級料亭・百川」より)]

[明治の初め頃まで存在していた懐石料亭。天明時代(1781~)には向島葛西太郎、それから大黒屋孫四郎、真崎の甲子(きのえね)屋、深川二軒茶屋と、ここ百川楼が五指に入る第一流の名店だった。また、黒船来航の折には乗組員全員に本膳を出して、その値なんと一千両だったと言われ、他店の手伝いを借りず自分の店だけで賄い、食器なども全て自前でそろえたぐらいの力があった。
 浮世小路は今の中央通り日本橋から歩いて、左手に三越本店を見ながら右手東レビル(日本橋室町2-2)の先、地下鉄三越前駅A6出口を出て右に入る。この道が日本橋小舟町に抜ける道で安政6年の切り絵図を見るとはっきり浮世小路の名前が見られます。その先左に福徳神社(福徳稲荷。日本橋室町2-4-14)が有り、その界隈に百川楼が有ったと思われます。日本橋から約300m。色気のある建物は付近に皆無で、当時浮世ゴザを商う店が有ったからとか、浮世風呂があり湯女のサービスが良くて人気を博していたから浮世小路と言われるようになったとか、言われていますが今はその面影はありません。浮世小路の別名を円生は”たべ物新道”といってやはり食い物屋がどっさり有ったという。  (「落語「百川」の舞台を歩く」より)]

浮世小路資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」[西堀留川西端先に浮世小路が描かれています。]

江戸方角安見図鑑. 乾,坤巻」・「ru11_01312_0001_p0016.jpg」[延寳8(1680)年・西堀留川西端先に浮世小路が描かれています。]

武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」[寛永年間(1624-1643)・この絵図には江戸橋、西堀留川に架かる中の橋は描かれていないが、西堀留川西端先に浮世小路が描かれている。絵図上で右クリックし、拡大してご覧ください。]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」 – 「ru04_03218_0001_p0041.jpg・右ページ2行目浮世小路の記述。」(1-41)

カメラ北方向が新浮世小路です。

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