清正公寺(熊本藩細川家下屋敷跡)

マーカーは清正公寺です。

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清正公寺
[日本橋浜町公園の一角にこじんまりとしたお寺が見られます。江戸時代熊本藩下屋敷であったこの地に文久元年(1861)細川斉護が熊本の日蓮宗本妙寺から勧請、創建したものとのこと、熊本本妙寺の別院です。勿論、祀られているのは”加藤清正公”です。加藤清正公は名君であり皆から敬愛されていたので、二代加藤忠広改易された後封ぜられた細川忠利は、大変気を使ったようです。それにより領民からの信頼をかち得たともいわれています。現在の堂宇昭和34年(1959)再建されました。  (「日本橋浜町の清正公寺 – 中央区観光協会特派員ブログ」より)]

[清正公寺は、文久元年(1861)に、細川藩主細川斎護が熊本本妙寺に安置する加藤清正公の分霊を勧請して当地にあった下屋敷に創建、加藤清正公を祀り、明治維新後には一時加藤神社と称したといいます。明治18年仏式に戻して清正公堂と改称、管理を熊本本妙寺に委託、本妙寺別院となしたといいます。
●「中央区史」による清正公寺の縁起
清正公堂、肥後本妙寺別院(日本橋浜町二の十二)
文久元年肥後国領主細川斎護が領地熊本本妙寺に安置する清正公の分霊を浜町別邸内に移し、仏式勧請したものが創建の由緒である。維新の際、信徒の請願によって神社に変換し、一時加藤神社と称した。明治七年六月、細川護之の発願によって衆庶の参拝を許したが、同九年府の布達に基ずき閉社して一般の参拝をとり止めた。その後、同十一年六月再び許可を得て公開し、同十八年十一月二十日仏式祭祀の許可を得ると同時に浜町清正公堂と改称し、経営管理を熊本県飽託郡日蓮宗本妙寺に委託した。以来本妙寺別院を組織し、浜町の氏神として大正十二年におよんだが、同年の震災により堂宇一切を焼失し、敷地も浜町公園の設置によって失うに至った。昭和四年七月十五日公園開園と同時に、復興局から提供された公園内堂宇敷地に遷座したが、堂舎は昭和二十年三月十日戦災によって再び焼失したが、このほど地下三十坪、階上二十五坪の公堂が再建された。本尊には十界本尊・開運勝利高祖日蓮大菩薩尊像・清正公大神祇尊像の三体を安置する。信徒は浜町界隈を中心として都内一円にわたっている。清正公大祭は六月二十三日、二十四の両日にわたって執行され、一月二十四日初御縁日、五月三日~五日御勝守祈禱会、七月二十四日灯籠流し等の年中行事とともに浜町周辺に風物詩を繰りひろげる。大祭中に頒与する御勝守は開運勝利の御札として賽者の間に有名である。なお、戦前には四の日に縁日が立ったが、戦時中にこの風も廃れ、未だ復興するに至っていない。(「中央区史」より)  (「清正公寺|中央区東日本橋にある日蓮宗寺院 – 猫の足あと」より)]

資料リンク
東京都立図書館アーカイブ – 日本橋北内神田両国浜町明細絵図(嘉永3[1850]/安政6[1859]再板)」(絵図右下に細川越中守(熊本藩細川家)下屋敷が描かれています。)

清正公寺 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向が清正公寺山門です。

清正公寺本堂前のカメラです。

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