照降町

マーカーは照降町です。

照降町
[照降町は、もとの小網町三丁目と小網町一丁目の間、荒布橋から親父橋にいたる通りの名で、家数にしたら何軒もなかったが、雪駄屋と下駄屋が軒を並べていたので、ユーモアたっぷりに、呼びならした町名である。
元禄の頃、ここ、てれふれ町の裏店に、若かりし日の其角が借家住いをしていたことがあって、二代目市川団十郎(柏莚)が、随筆『老いのたのしみ』のこんな話を書いている。
「・・・・・其頃翁(芭蕉翁を指す)は四十前後の人、笠翁子嵐雪居士も、どうどうにて、てれふれ町足駄屋の裏、其角翁の所に、出居衆に笠翁は居られ、嵐雪もかゝり人にて三人居られ候よし。嵐雪なども、俳情の外は、翁ははづし逃などいたし候由。殊の外気がつまりおもしろからぬゆへ也。(中略)其ころ其角嵐雪は、夜具もなき、どうらくなるくらしのよし・・・・・」
芭蕉が四十前後といえば天和年中か貞享の初年のことだ。夜具もないような、貧乏ぐらしの其角の借家に、嵐雪や笠翁がころがりこんで、どんな生活をしていたのやら。貞享の昔、俳諧一本で世を渡るということが、どんなに容易ならぬことだったかが察せられもする。  (「中央区立図書館 – 12.中央区名所名物句集四 安藤菊二輯(PDFファイル:879.45 KB)」より)]

[堀江町3丁目と4丁目の間の僅か2丁たらずの境界の通りに、江戸時代、下駄と傘、雪駄を売る店が並び賑わったので、照る日に使うものと雨の日に使うものを売る所から照降町と呼ばれたとか言われてます。古くから営業していた宮田傘物店の引札に、「寛永3年に開店し、紅葉傘千利休の用いた庭下駄、めせき笠を売り弘めた所、殊の外繁昌し軒並みに同業者が店を並べ、せった・傘・下駄るいの商売多く、世上に異名を照降町と呼ばれるようになった」とあります。井原西鶴も、『日本永代蔵四』に、「降照町は下駄、雪駄の細工人」と書き、市川團十郎_(2代目)の書いた『老のたのしみ』の中にも、俳人宝井其角服部嵐雪と共に、「てれふれ町足駄屋の裏」にわび住いをしていた記事があります。降れば足駄や傘が売れ、晴れた日には雪駄が売れるので、通る人が挨拶に困り、照れ、降れと願望をこめて呼んだと言う話もあり、てれ降れ町とも言ったのかも知れません。実際には照降町と呼ぶのが本当のようです。しかし江戸市民の町の呼び方、なかなかすばらしいと思います。  (「日本橋小舟町 | 日本橋“町”物語 | 東京都印刷工業組合 日本橋支部 」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」[絵図下中央付近・西堀留川荒布橋東堀留川親父橋の間に「てりふり丁」と記述されている。]

東京市及接続郡部地籍地図. 上卷(大正元年)」[131/647に照降町が記述されています。照降町の上に記述されている安田銀行(元第三国立銀行本店)は現在のみずほ銀行小舟町支店です。]

カメラ位置は親父橋西詰付近で、カメラ西方向・小舟町交差点までの道路両サイドが照降町と言われていました。

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