玄武館跡

マーカーは玄武館跡の碑です。

[於玉ヶ池は、江戸期の古地図では景勝地として現在の不忍池程度の面積を有していたらしいが、江戸後期頃から徐々に、神田山(駿河台)を削って埋め立てて宅地化されて、弘化2年(1845年)の時点で池自体も存在しない。 北辰一刀流の道場「玄武館」があった場所として有名で、千葉周作は「お玉ヶ池の先生」と呼ばれた。 この界隈には、儒者、漢学者などが多数住んでおり、江戸の学問の中心地でもあり、佐久間象山の象山書院、東条一堂の瑶池堂などがあった。  (wikipedia・於玉ヶ池より)]

玄武館跡・瑶池塾跡
[玄武館は、北辰一刀流開祖の千葉周作が開いた北辰一刀流の道場です。1822年(文政5年)、日本橋品川町に創設された玄武館は、その後神田お玉が池(現在地)に移転します。練兵館士学館と並び、幕末の江戸三大道場の一つに数えれレました。
 玄武館の西隣には、1821年(文政4年)、儒学者の東条一堂が儒学と詩文を教授するため開いた瑶池塾(ようちじゅく)がありました。一堂は、京都の皆川淇園の下で儒学を学んだ後、江戸でも亀田鵬斎に指示して儒学を修めました。 (「Google Map 画像リンク」より)]

千桜百年の碑
[江戸時代、このあたりは「お玉ケ池」と呼ばれ、民間の学問と武芸の盛んな所でした。明治になり、新しい学制がしかれ、桜池学校がつくられたのは明治六年十月のことです。当時としては、最も早い公立学校の一つでした。
 しかし、明治十四年二月、桜池学校(第一大学区第一中学区第三番小学、明治六年十月開校)と、近くにあった千代田学校(第一大学区第一中学区第十一番小学、明治十年三月開校)は、ともに、近所の大火で類焼し廃校になりました。
 翌、明治十五年十月十八日、桜池学校跡くに、両校名の頭文字をとり「千桜小学校」が創立されました。
 昭和五十六年十月十八日は、本校が創立されて百年目のあたりますので、それを記念して、ここに碑を建てることにいたします。
         千桜小学校創立百年記念事業協賛会  (「Google Map 画像リンク」より)]

千葉周作
[千葉周作の曽祖父・千葉平右衛門道胤が開いたという北辰夢想流という剣術流派が千葉家の家伝として伝わっていたという。周作もこれを学んでいたと伝えられ、さらに中西派一刀流浅利義信に入門した。後に浅利義信の師匠の中西子正(中西派一刀流第4代)にも学んで腕を磨き、浅利義信の婿養子となり浅利家の家督と剣術の道統を継ぐことを期待されるほどとなった。しかし、組太刀の改変について浅利義信と意見が対立したため、妻(浅利の養女)を連れて独立し北辰一刀流を創始した。北辰の文字を一刀流に冠して新流とした意味は、千葉家においては諸祖・千葉常胤以来、北辰(北極星=妙見)の信仰を生活原理としてきたからである。その後、武蔵・上野などを周って他流試合を行い、門弟数も増え、伊香保神社に奉納額を掲げることを企画した。しかし、地元の馬庭念流がこれを阻止しようとする騒動が発生し、掲額は断念した。この騒動で周作自身は名を挙げたが、北辰一刀流は事実上、上野から撤退し、上野(群馬県)では明治中期まで北辰一刀流を教える者はいない状態となった。江戸に帰り、1822年(文政5年)秋、日本橋品川町に玄武館と言う道場を建てた。(後に神田於玉ヶ池に移転)。千葉周作の開いた玄武館は、練兵館(神道無念流)、士学館(鏡新明智流)とともに幕末江戸三大道場の一つに数えられ、入門からわずか5年で皆伝を得た海保帆平、玄武館四天王と呼ばれた稲垣定之助、庄治弁吉、森要蔵、塚田孔平などの高弟を輩出した。幕末の志士、坂本龍馬清河八郎新選組では藤堂平助山南敬助伊東甲子太郎服部武雄吉村貫一郎らも学んだといわれる。  (wikipedia・北辰一刀流より)]

右文尚武の碑/龍馬伝紀行 : 京都より愛をこめて

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」[絵図四つ切右上・市橋壱岐守(仁正寺藩市橋家)上屋敷があり、その左隣に千葉周作と記述されています。]

国際日本文化研究センター – (題箋)番地入東京市神田區全圖(明治40・1907年)」(地図四つ切右下・東松下町に「千桜小学校」が描かれています。)

玄武館跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向に東條一堂と千葉周作の業績を顕彰する「右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)」の碑、その右に玄武館跡・瑶池塾跡案内板、その右に千桜百年の碑と案内板が設置されています。

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