マーカーは田安徳川家下屋敷跡です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP566・コマ番号327/553から田安徳川家屋敷の変遷について記載されています。P567・コマ番号327/553「下屋敷 箱崎」がこの地になります。
箱崎の田安家下屋敷
[中州の地が文字通り中州をなして、葭や芦が生い茂り、涼風吹きわたっていたころ、三股の流れによって浜町と地を隔てる箱崎の地には、町屋としては南端に一筋町の北新堀、東端に箱崎町一・二丁目のわずかな町屋があるばかり、土地の八割は大名屋敷がこれを占めていた。
地区の北部の過半を占めていた箱崎四丁目は、延宝(1673年-1681年)、天和(1681年-1684年)のころには、堀田対馬守(堀田正英)と阿部美作守(阿部正武)の邸がこれを領し」、南隣朽木伊賀守邸との境は、一筋の掘割があって二地を割いていた。
元禄年中(1688年-1704年)、この二地区は阿部豊後守(阿部正武)の邸地となり、掘割は埋め立てられ一続きの土地となった。面積は八、七七七坪を算した。
その阿部家の邸地が田安宗武の下屋敷となったのは延享三年(一七四六)十一月六日であった。宗武は英名をもって聞えた八代将軍吉宗の第二子。享保六年(一七二一)江戸城田安門内に邸地を与えられて一家を興し、田安家を称して新たに将軍家の藩塀となった。この箱崎と深川高橋とに下屋敷を置いた。
箱崎の田安邸は明治五年十二月上地され、二年の春土佐の山内容堂公が払い下げを受けて居邸とし、林泉の手入れを加え、林園頗る観るべきものがあった。 (「22.切絵図考証九 安藤菊二(PDFファイル:943.37 KB)」より)]
「東京都立図書館アーカイブ – [日本橋南北浜町八町堀辺図] ([嘉永6[1853]?])」(絵図下中央に田安殿と描かれています。)
カメラ位置は中央区日本橋箱崎町27西角交差点で、カメラ北東方向一帯が田安徳川家下屋敷跡になると思います。