矢田堀鴻屋敷跡

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矢田堀鴻
[矢田堀 鴻(やたぼり こう、文政12年(1829年) – 明治20年(1887年)12月18日)は、日本の武士(幕臣)で、江戸幕府最後の海軍総裁。名は景蔵。官位は、讃岐守。函陵と号した。
幕府小普請方、荒井精兵衛の三男として、江戸に生まれる。長兄・荒井清兵衛の長男が、荒井郁之助である。小普請方、矢田堀又蔵の養子となる。
10代のころから昌平坂学問所に学んだものと思われる。嘉永元年(1848年)、数えで20のときには学問御試を受け、白銀10枚を賜っている。後に勝海舟は矢田堀の墓碑銘に、「弱冠にして昌平学校生徒となり、学業日に進み、田辺太一、塚本恒甫と時に三才子の称あり」という言葉をよせている。
嘉永3年(1850年)、養父の死去によって跡目を継ぐ。2年後には、甲府徽典館の学頭となった。黒船来航当時は、甲府にいたもようである。
安政2年(1855年)、長崎海軍伝習所が開かれる運びとなって、矢田堀は、勝海舟、永持亨次郎とともに筆頭格で伝習生に選ばれる。ここでも矢田堀は、航海術習得において抜群の才を示した。2年ほどたって、幕府は、幕臣伝習生を教師として、築地軍艦教授所を設けることを決めた。矢田堀は、その教授頭に選ばれたのだが、伝習所長だった永井尚志も江戸へ帰ることとなり、矢田堀を船将として観光丸での航海が試みられた。伝習生たちは、見事に成果を見せて、江戸へ帰着した。
文久元年(1861年)、軍艦奉行木村芥舟によって、軍艦頭取に取り立てられる。文久3年(1863年)3月、軍艦奉行並となる。翌元治元年(1864年)、軍艦奉行となった勝海舟は、神戸海軍操練所を設立して、これまでの幕府海軍とはまったくちがう方向を指向した。この操練所には反幕府の色合いを持つ諸藩生徒も多かったがために、禁門の変長州藩が朝敵となった後、勝は罷免され、その側杖を食った形で、矢田堀もお役御免となった。
矢田堀が海軍総裁に就任したのは、鳥羽・伏見の戦いの敗戦の後のことである。艦隊を掌握していたのは副総裁の榎本武揚で、新政府への軍艦引き渡しを拒んだ末に、北へ向かった。勝海舟とちがって、政治的な駆け引きのできない矢田堀には、出る幕がなかったといえる。あるいは心情の上からは、甥の荒井郁之助や弟子の甲賀源吾など、教え子たちが多数加わっていた脱走艦隊に、同調していたものかもしれない。矢田堀は、徳川家に従って静岡に移る。以降、静岡で沼津兵学校校長を務めたほか、のちには東京へ出て、新政府にも出仕した。  (wikipedia・矢田堀鴻より)]

矢田堀鴻屋敷資料リンク
矢田堀鴻屋敷跡紹介サイト – 「19.切絵図考証六 安藤菊二(PDFファイル:1654.23 KB)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」(絵図右下・森川紀伊守上屋敷下に矢田ボリと描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」(絵図右下・堀出羽守上屋敷下に矢田堀景蔵と描かれています。)

カメラ位置は日本橋人形町1丁目12地先の新大橋通り交差点でこの付近に矢田堀鴻屋敷があったようです。

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