マーカーは福徳神社です。
福徳神社
[貞観年間(859 ~876年)にはすでにこの地に鎮座していたという福徳神社。いま仮のお社だが、2014年には約528平方メートルの敷地に鳥居、拝殿などが建設され「福徳の森」として生まれ変わる。
江戸時代、神社のあった通りは「浮世小路(うきよしょうじ)」と呼ばれ、料理屋が建ち並ぶ繁華街だった。また、福徳稲荷は江戸幕府から富籤(とみくじ)興行を許された数少ない寺社の一つであったことから、この辺りは多くの人で賑わっていた。活気ある日本橋の街をつぶさに見てきた福徳神社だが、実はこれまで幾度かの移転や解体を経験している。最大の危機は、天保の改革(1830 ~1843年)の頃だ。老中・水野忠邦の命により神職や修検、出家者などが転居を命じられ、それに伴う形で福徳稲荷も姿を消した。しかし、水野忠邦の失脚後、氏子たちが奉行所へ願書を出し、稲荷は西堀留川岸の地で再興される。さらに関東大震災で被害に遭い、第二次世界大戦でも焼失するが、その度に再建されてきた。現在の地に落ち着いたのは昭和48年(1973年)のことだ。 (「真木千明 氏|日本橋福徳塾|日本橋を楽しむ|まち日本橋:お江戸 …」より)]
福徳神社資料リンク
「国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図中央下・西堀留川西端先に「ウキヨコウシ」が、先端下に「イナリ」(福徳神社)が描かれている。)
「東京市及接続郡部地籍地図. 上卷(大正元年)」(124/647の左上・西堀留川の埋め立て地に福徳神社が記述されています。)
「江戸方角安見図鑑. 乾,坤巻」・「ru11_01312_0001_p0016.jpg」[延寳8(1680)年・西堀留川西端先に浮世小路が描かれている。]
カメラ北北西方向が福徳神社です。
カメラ初期設定方向が福徳神社拝殿です。