禰宜町

マーカーはカメラ位置です。

禰宜町(現・日本橋堀留町2丁目あたり)
[長谷川町は古くは禰宜町といい、椙森神社の禰宜(宮司)が住んでいたためと伝えられています。また、明暦の大火後に市街地となり、長谷川久兵衛という人が開いたので、長谷川町という町名になったと伝えられています。『江戸砂子』には、「此所に芝居しばらくあり」と記しています。  (「日本橋堀留町 – 東京都印刷工業組合 日本橋支部」より)]

[江戸の芝居小屋は、寛永元年 (1624年) に山城国狂言師で京で猿若舞を創始した猿若勘三郎が、中橋南地(なかばしなんち、現在の京橋のあたり)に櫓をあげたのにはじまる。これが猿若座である。ところがこの地が御城に近く、櫓で打つ人寄せ太鼓が旗本の登城を知らせる太鼓と紛らわしいということで、寛永9年 (1632年) には北東に八町ほど離れた禰宜町(ねぎまち、現在の日本橋堀留町2丁目)へ移転、さらに慶安4年 (1651年) にはそこからほど近い堺町(さかいちょう、現在の日本橋人形町3丁目)へ移転した。  (wikipedia・江戸三座より)]

[寛永9年(1724年)中橋にあった芝居が移されたという禰宜町は、寛永江戸図に吉原の北隣の町名として記されている。後の長谷川町で『堺町猿若勘三郎座由緒書』には、「此節芝居所者祢宜町にて仕候。右祢宜町は長谷川町横町之事、私名せった町と申候。」といってある。現今は堀留町東部の、人形町に接するあたりが、その旧地に相当する。
 ともあれ、祢宜町が隣接地吉原の繁昌と相まって、賑やかな歓楽地をなしていたことは、『吾妻物語』のリズミカルな文章によってうかがうことができる。  (「中央区立図書館 – 2.中央区と演劇 安藤菊二(PDFファイル:947.00 KB)」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡江戸〔庄〕図[寛永9年(1632)頃刊](絵図右下・ほりとめの上方向に祢ぎ丁と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」(絵図中心より右下方向に長谷川町が描かれています。)

カメラ位置は堀留町交差点で、カメラ北東方向が禰宜町(現・日本橋堀留町2丁目)です。

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