稲荷堀(とうかんぼり)跡・姫路藩酒井家中屋敷跡

マーカーは稲荷堀跡案内板です。

姫路藩酒井家関連リンク – 酒井雅楽頭上屋敷跡古河藩土井家・姫路藩酒井家下屋敷跡(鶏声ヶ窪、「鶏声の井」碑)

[切絵図に載る雅楽頭は名は忠績、播州姫路藩主、従四位下侍従、文久三(1863)年溜間詰より老中首座となり、元治元(1864)年六月免職溜詰、同二年二月大老となった。
蛎殻町の酒井家中屋敷の拝領年月日は「江戸藩邸沿革」に不詳とし、ただ、寛政四(1792)年閏二月十二日田沼淡路守(陸奥国下村藩田沼意明)の下屋敷七、四〇六坪を、相対替によって取得した由が記してある。
田沼侯は庭園に数寄をこしらえたので名木名石の類が多くあったが、某年の大火で焼け、石の類は、侯がこの地を去る際は、多くは地中に投じ去ったので、昔日の観を止めなかったという。
明治維新後、一丁目一番地が西郷隆盛の邸地となり、南部は福井藩松平氏(松平茂昭)の藩邸となる。  (「19.切絵図考証六 安藤菊二(PDFファイル:1654.23 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号271/284「延宝年中(1673年-1681年)之形」、コマ番号272/284「元禄年中(1688年-1704年)之形」の左ページ中央上に安藤對馬守、下に酒井雅樂頭と記述されています。コマ番号273/284「寶永年中(1704年-1711年)之形」、コマ番号274/284「享保年中(1716年-1736年)之形」で雅樂守屋敷地右部分が分割されています。コマ番号275/284「安永年中(1772年-1781年)之形」で安藤對馬守屋敷地が田沼主殿頭と記述されています。コマ番号276/284「文化五(1808)年之形」で田沼主殿頭が酒井雅樂守と記述されています。コマ番号277/284「天保三(1832)年之形」、コマ番号278/284「天保十一(1840)年之形」で上の酒井雅樂守屋敷部分が松平越中守に分割されています。コマ番号279/284「安政三(1856)年之形」からコマ番号281/284「当時(文久元年・1861年)之形」で分割されていた部分が復活しています。)

稲荷堀(とうかんぼり)
[小網町蛎殻町一丁目の境にあたるこの辺一帯は、昔は掘割になっていました。その河岸の端に稲荷神社があったことから、稲荷を音読みで「とうか」とか「とうかん」と読んで、堀をとうかん堀と呼んだと伝えています。
この地域は、この堀を利用して、各種の荷物が船で運ばれたために問屋が集り、特に瀬戸物問屋の多かった所です。堀の出入口にあった行徳河岸は、寛永九年(一六三二)以来、この堀と下総千葉県行徳村とをむすんできました。この水路は行徳からの塩の受入地となり、また江戸から下総への唯一の交通路となって、行徳行きの人と塩などを積んだ船が出入りする賑やかなところでした。
この堀は、最古の江戸図といわれる「寛永江戸図」にも、見られます。また、この堀にそって酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷があり、幕末までありました。姫路藩十五万石の藩主として知られています。酒井家の屋敷の一部は、明治維新の後、明治六年(一八七三)十月まで西郷隆盛の屋敷となりました。
なお、東華小学校(現、日本橋小学校)の校名は稲荷堀の稲荷(とうか)をとって東華(とうか)と名付けられたといわれています。
平成九年三月
中央区教育委員会  (「稲荷堀(とうかんぼり) – ビバ!江戸」より)]

酒井忠績
[酒井 忠績(さかい ただしげ)は、江戸時代後期の大名、老中大老播磨国姫路藩8代藩主。雅楽頭系酒井氏21代。江戸幕府最後の大老である。
姫路藩分家の旗本・酒井忠誨(5000石)の長男として生まれる。本家の姫路藩主酒井忠顕に子がなかったため、その養子となり、万延元年(1860年)に家督を相続する。
文久2年(1862年)5月、幕命により京都守衛と京都所司代臨時代行の特命を帯びて上洛・入京した。安政の大獄期に京都所司代に就任した若狭小浜藩主・酒井忠義は、万延元年に桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺された後も引き続きその職にあり、罷免を朝廷から要求されていた。幕府は忠義を罷免し、後任として大坂城代松平宗秀を内定したが、宗秀も安政の大獄当時は寺社奉行の任にあり直弼の信任が非常に厚かったため、朝廷は宗秀の所司代就任にも内諾を与えなかった。このため所司代職は空席という、開幕以来の異常事態となっていた。このため、9月末に牧野忠恭が後任の所司代として正式に承認されるまで4か月間、臨時所司代の任にあたった。
京都市中警備の功績により、文久3年(1863年)6月18日に老中首座となる。老中就任後は兵庫開港をめぐって朝廷対策に奔走する一方、年末に14代将軍徳川家茂の上洛が決定すると、常陸水戸藩徳川慶篤武蔵忍藩松平忠誠と共に江戸城留守居役を命じられる。ちょうど1年後の元治元年(1864年)6月18日に老中職を退いたが、8か月後の元治2年(慶応元年、1865年)2月1日には大老となった。そして第二次長州征討の事後処理、幕府軍の西洋式軍制の導入など、幕政改革に尽力した。一方、藩内で台頭してきた尊王論に対しては「徳川家譜代の臣として幕府と存亡をともにするのが道理である」とし、元治元年に重臣・河合屏山を幽閉して多数の尊王派を粛清する「甲子の獄」と呼ばれる事件を起こしている。
慶応3年(1867年)2月に隠居し、次弟で養子の忠惇に家督を譲る。ところが戊辰戦争の際に鳥羽・伏見の戦いの責任を問われた忠惇は江戸で蟄居、同じく江戸にいた忠績も謹慎をしていたが、憤懣やるかたない忠績は慶応4年(1868年)5月5日に江戸城の新政府軍大都督府に対して、謹慎の姿勢を貫いている徳川家の処遇への不満と共に、酒井家は徳川家譜代の家臣であり、徳川家との主従関係を断ち切ってまで朝廷に仕えるのは君臣の義に反するので、この際所領を返上したいとする嘆願書を提出する。対応に苦慮した新政府は、忠惇に替わり遠縁の伊勢崎藩主家から急遽養子に入って酒井宗家を相続した最後の藩主・酒井忠邦に忠績の翻意を促すよう命じるが、いまだ姫路藩の最高意思決定者を自負する忠績はもとより遠縁の別家から養子に入ったばかりの数え15の忠邦の言葉に聞く耳を持つ道理もなく、忠惇までもが忠績の考えに賛同する有様で埒があかなかった。立場をなくした姫路藩は新政府に迫られるままに藩内の佐幕派の粛清に乗り出し、忠績・忠惇の側近を一掃した(「戊辰の獄」)。改元あって明治元年となった直後の同年9月14日、忠績は実弟の静岡藩士・酒井忠恕方での同居が認められ、これで事態はやっと収拾された(後に忠惇もこの忠恕方に預けられている)。
明治13年(1880年)11月、終身華族となる。明治22年(1889年)5月には忠邦の子・酒井忠興の酒井伯爵家とは別に一家を立てることが許されて、永世華族に列して男爵を授けられた。明治28年(1895年)に死去、享年68。  (wikipedia・酒井忠績より)]

資料リンク
国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図中央下・日本橋川の右方向、酒井雅樂守中屋敷左に稲荷堀が描かれています。)

カメラ南方向に稲荷堀跡案内板があります。