紀州徳川家浜町中屋敷跡

マーカーは紀州徳川家浜町中屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP478・コマ番号283/553から和歌山藩(紀州藩徳川家)屋敷の変遷について記載されています。P480・コマ番号284/553「中屋敷 濱町 蛎殻町三丁目」がこの地になります。

[紀州家が浜町(蛎殻町三丁目)の中屋敷を入手したのは比較的新しく、天保5年の大火による屋敷替えの為で、紀州家の中屋敷を焼いた天保五年二月七日の大火(甲午火事)は、神田佐久間町から出火し、西北の風が烈しかったため、両国、日本橋、八丁堀辺、築地門跡近辺まで下町一円を焼く大火事となった。
以下、『南紀徳川史』の記述。
『浜町邸 維新後蛎殻町三丁目一番地
文政十三年二月十二日牧野山城守中屋敷二千坪を三方相対替にて御譲受け、浜町御屋敷と唱ふ。
坪数二千坪 天保十三年屋敷改へ書上
一、天保五午年二月七日神田佐久間町より出火にて類焼。
一、明治元年辰年十二月御差上之処、翌二己年十二月御願之通当分御拝借済。
一、同三年午年七月九日府下諸藩官私邸壱ケ所に被定たるに付、同年十一月十二日御差上、然して当邸の儀は藩地より運送之節荷物水揚当便利に付、以来為蔵地地面御拝借之儀、御願之通同月廿日を以相済、相当の地代上納可致旨指令あり。
当邸建物は左之如く、三山方にて出金有之たる由。本邸は紀伊國屋万蔵へ貸与したると見へたり。
 御殿 九百坪。横蔵二ヶ所にて四拾弐坪
 御長屋 八拾三坪。二階建裏長屋参拾一坪半
 表蔵 三拾坪。門番所 拾坪。
 奥蔵 二拾四坪。門 弐ヶ所。(『南紀徳川史』第一七冊九二五~六頁)』

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図四つ切右下・永久橋右上に紀伊殿下屋敷と描かれています。)

カメラ位置は東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目1南西角交差点で、カメラ北北東方向ロイヤルパークホテルの西側部分が紀州徳川家浜町中屋敷跡になると思います。