薬研堀不動院

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マーカーは薬研堀不動院です。

薬研堀不動院
[真言宗智山派の薬研堀不動院は、川崎大師平間寺の東京分院です。根来寺の大印僧都が不動尊像を背負って東国へ下り、天正13年(1585)当地に創建したと伝えられます。関東三十六不動21番札所、御府内八十八ヶ所霊場23番札所です。 (「猫のあしあと」より)]

[大本山川崎大師平間寺東京別院薬研堀不動院は、古くから目黒目白と並んで江戸三大不動として知られ、「江戸名所図会」をはじめ多くの文献に紹介されています。ご本尊不動明王尊像は、崇徳天皇の代、保延3年(1137年)真言宗中興の祖・興教大師覚鑁上人が43才の厄年を無事にすまされた御礼として、一刀三礼敬刻され、紀州・根来寺に安置されたものです。その後、天正13年(1585年)豊臣秀吉勢の兵火に遭った際、根来寺の大印僧都が尊像を守護して葛籠に収め、それを背負って東国へ下りました。やがて隅田川のほとりに有緑の霊地を定め、堂宇を建立しました。これが薬研堀不動院のはじまりです。幾多の変遷がありましたが、明治25年(1892年)真言宗智山派大本山川崎大師平間寺の別院となり、今日に至っています。  (薬研堀不動院案内より)  (「こだわりの「七味唐辛子」、日本三大七味 – e-mansion IS」より)]

[本尊の不動明王は興教大師覚鑁が43歳の時、無事に厄年を越えた御礼として、一刀三礼して刻んだものという。長く根来寺に安置されていたが、天正13年(1585)豊臣秀吉が根来寺を焼き討ちした際、大印僧都が葛籠に納め、東国へ下った。そして、隅田川のほとりに一宇を建立して不動尊を安置したのが当院の始まりという。この由来から「葛籠不動」とも呼ばれる。江戸時代には目黒不動・目白不動とともに江戸三大不動と称され、広く信仰を集めた。年末に行われる歳の市は江戸の歳の市の締めくくりで、多くの人々が集まった。現在では、東日本橋の問屋街が安売りの露店を出す出庫市で協賛し、多くの買い物客で賑わう。また、薬研堀が講談発祥の地とされることから、境内には講談発祥之地の碑があり、定例の講談の会も催されている。明治25年(1892)川崎大師の東京別院となる。大正12年(1923)関東大震災のため本堂が倒壊。再建に当たっては街の再開発のために境内を移転・縮小して現在に至る。東日本橋の問屋街のビルにはさまれた狭い境内だが、赤い幟がはためき、信仰の厚さを偲ばせる。  (「23番 薬研堀不動院 – 古今御朱印研究室 – 古今宗教研究所」より)]

記念碑散策/中央区マップ – 人形町 – 納めの歳の市之碑

薬研堀不動院 – Google Map 画像リンク

カメラ南西方向が薬研堀不動院です。

薬研堀不動院前のストリートビューです。

薬研堀不動院内のストリートビューです。

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図

「江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・「薬研堀」(絵左上に薬研堀不動院が描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「薬研堀」(1-64)

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