上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。
西堀留川(塩河岸・米河岸)
[東堀留川(ひがしほりどめがわ)、西堀留川(にしほりどめがわ)は、東京都中央区に存在した河川。日本橋川から北側に入り込む入堀であった。かつて東堀留川・西堀留川と日本橋川の合流地点付近は江戸時代以前は海岸線であった。一説によると、東堀留川・西堀留川は不忍池・お玉が池と流れ、この地を河口とする河川の一部であったと言われる。江戸幕府の河川改修により、この河口付近から道三堀(日本橋川の原型)が江戸方向に掘られ、その後、道三堀の先に陸地が造成され、上流部に神田川が開削された。これにより、不忍池より、この地に至る河川も流路が絶たれることとなり、下流部を堀として、残りを廃し、上流部は開削した神田川に付け替えたと言われる。この説によれば、東堀留川、西堀留川はその名の通り河川であったことになる。西堀留川は戦前から埋立てが開始され、昭和3年には消滅している。東堀留川は戦後の残土処理などのため、昭和23年から埋立てが始まり、昭和24年には消滅している。
現在の地名でいうと東堀留川は中央区日本橋堀留町と中央区日本橋小舟町の境界、西堀留川は中央区日本橋小舟町と中央区日本橋本町の境界付近に相当する。東堀留川の跡地は児童公園などになっているが、西堀留川は埋立て時期が古いため、現在では道筋を除いて殆ど名残がない。
西堀留川 – 日本橋小舟町1-1~4番地西側、日本橋本町1-6~10番地、日本橋本町2-6番地 (wikipedia・東堀留川より)]
[塩河岸
所在地 中央区日本橋本町2‐4・5地域
かつて、この付近には、江戸初期に川を埋めてつくった堀の西堀留川がありました。この堀は、江戸橋から北に入り、この通りの東側で船入堀が西へと曲がっていました。カギ状に曲がったその先には、道浄橋と雲母橋が架かり、その橋の間にあった北岸を塩河岸と呼びました。江戸時代、ここに塩問屋があったことから、そう呼ばれるようになったといいます。『江戸名所図会』には、「伊勢町河岸通 米河岸 塩河岸」と題された挿絵が掲載され、往時の様子を知ることができます。明治10年には、東京府によって対面南岸が「南塩河岸」、北岸を「北塩河岸」と定められました。 平成12年3月 中央区教育委員会 (「記念碑散策-中央区マップ-
塩河岸」より)
西堀留川資料リンク
「国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図下中央付近・左側の川が西堀留川です。)
「東京市及接続郡部地籍地図. 上卷(大正元・1912年)」(コマ番号124/647の右側に東堀留川、上方向に埋め立て後の東堀留川跡が分筆図により分かる。また旧室町2丁目の中間ライン上に中ノ橋が描かれています。)
「江戸方角安見図鑑. 乾,坤巻」・「ru11_01312_0001_p0016.jpg」[延寳8(1680)年]
「武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」[寛永年間(1624-1643)・この絵図には江戸橋、西堀留川に架かる中の橋は描かれていない。絵図上で右クリックし、拡大してご覧ください。]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「伊勢町河岸通米河岸塩河岸」(1-44)
伊勢町河岸通米河岸塩河岸(拡大図)
[図会左ページ下に中の橋、右ページ中程に道浄橋が描かれている。]
カメラ北北西方向が日本橋小舟町1-1になります。
カメラ位置は西堀留川の北端・堀留町で、ここ付近で西方向に折れ曲がります。その折れまがった先に道浄橋があり、その先に雲母橋(きらず)があった。また、西方向に曲がった西堀留川の北側が塩河岸、南側が米河岸です。
カメラ西南西方向が現在の浮世小路、カメラ東南東方向が現在の福徳神社で、この付近が西堀留川の堀留です。