マーカーは西郷隆盛屋敷跡案内板です。
西郷隆盛屋敷跡
[西郷隆盛屋敷跡
所在地 中央区日本橋人形町1丁目1番
日本橋小網町14番
日本橋蠣殻町1丁目10~13番地域
明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827~1877)の屋敷がありました。
明治6年(1873)の「第壱大区沽券図」には、「蠣殻町1丁目壱番/2633坪/金1586円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
維新後、西郷は郷里鹿児島にいましたが、明治4年に新政府から請われて上京し、参議に就任、同年10月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
明治6年になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりをみせるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。閣議でもいったんは西郷の使節派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました。(明治6年の政変)
下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。鹿児島では、支族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治10年に西南戦争を起こし自害しました。
平成19年3月 中央区教育委員会 (「西郷隆盛屋敷跡(日本橋人形町) ( 東京都 ) – オ~イ パンダのブログ 」より)]
カメラ南西方向に西郷隆盛屋敷跡案内板が設置されています。
西郷隆盛屋敷跡案内板(Google Map 画像)