親父橋跡

マーカーはカメラ位置です。

親父橋
[思案橋の名称については「昔時遊客が、吉原に遊ばんか、堺町に往かんかと思案せし處なればこの名あり」(日本橋区史)と書かれていますが、親爺がこの橋まで来て、さて今日は吉原(元吉原)に行こうか、それとも芝居(堺町・葺屋町)でも見ようかと“思案した”ので付けられたとも聞いています。ついでに、思案橋に続く堀留に「親父橋」がありました。
吉原を開いた庄司甚右衛門が架けた橋で、”親父”と呼ばれて親しまれてたので、親父橋と命名されたと言われます。(池田弥三郎「日本橋私記」)。
日本橋人形町界隈には元和3年(1617)に江戸幕府公認の遊郭と芝居町が設定されました。
この辺りは(よし)や(かや)の生い茂る沼地で、当初は「葦原」といいましたが、後にめでたい文字をあて「吉原」としたようです。
吉原遊郭明暦の大火を期に浅草日本堤に移転しましましたが、芝居町には歌舞伎小屋の「中村座」「市村座」や浄瑠璃の「薩摩座」、人形芝居の「結城座」などがありました。  (「日本橋小網町今昔 – 東京油問屋市場」より)]

[人形町から日本橋に通じる道に、親父橋と呼ぶ橋が架かっていました。この周辺の芳町には、江戸の頃から口入宿が軒をつらねるようにありました。以前は職業安定所、いまのハローワークには大勢の人が集まり、就職(奉公)先を選ぶ姿が、各々の店で見られたのが早朝の風景でした。江戸はもちろん近隣から集まってきて、生業に付きたい雇われを望む人、つまり職を求める人の希望を、次から次と帖面に書きとめる貼付けの役は、えんまと呼ばれている番頭でした。午前7時頃になると、一同に集まった広場で貼付けのえんまが、何処の何屋または何商売の飯炊き、あるいは出前持ちはどうか、と云うように職を斡旋するのが口入宿(くちいれやど)でした。明治になって早々から人形町通りが確立し、各店が並び繁昌したのは、江戸時代からここ一ヶ所に在った口入宿街に、毎日のように大勢の人が集まってきたのも、人形町繁栄の一助であったはずです。  横丁の郷土史家  有田芳男  (「東京都中央区の歴史 親父橋跡(口入宿跡)」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」[絵図下中央付近・堀江町4丁目の右上に親父橋が描かれています。]

東京市及接続郡部地籍地図. 上卷(大正元年)」[131/647に照降町が記述され、照降町の右に親父橋が描かれています。照降町の上に記述されている安田銀行(元第三国立銀行本店)は現在のみずほ銀行小舟町支店です。]

江戸方角安見図鑑. 乾,坤巻」・「ru11_01312_0001_p0016.jpg」[延寳8(1680)年]

武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」[寛永年間(1624-1643)・この絵図には江戸橋、西堀留川に架かる中の橋は描かれていない。絵図上で右クリックし、拡大してご覧ください。]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「堺町葺屋町戯場」(2-7)[図会左ページ下に親父橋が描かれています。]

カメラ位置は親父橋跡付近で、南・北方向に東堀留川があった。

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