諏訪藩諏訪家中屋敷跡

マーカーは諏訪藩諏訪家中屋敷跡です。

関連リンク – 諏訪藩上屋敷跡(田沼意次屋敷跡)諏訪藩諏訪家下屋敷跡

[信州諏訪郡高島、三万石の城主。この地を相対替で手にいてたのは、当主諏訪忠誠の時(一八五九)五月であった。『藩邸沿革』にいう。
「一、中屋敷 元矢ノ倉(浜町一丁目)
相対替、安政六(1859)年五月十六日 坪数二千三百五拾坪
相対替屋敷書抜 安政六年五月十六日、宗対馬守(対馬府中藩宗義和)中屋敷、元矢ノ倉露六百三拾弐坪。本多主膳正(近江膳所藩本多康穣)下屋敷。同所千七百拾八坪。諏訪因幡守え。同人中屋敷、下谷金杉千坪、戸田采女正(美濃国大垣藩戸田氏彬)え、八方相対替。 (『東京市史稿』市街篇四九 – 六〇五頁)  (「16.切絵図考証三 安藤菊二(PDFファイル:985.47 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号250/284「当時(天保九年・1838年)之形」の絵図左ページ中央下に宗對馬守と記述されています。コマ番号251/284「当時(文久元年・1861年)之形」に諏訪因幡守と記述されています。)

諏訪頼水
[諏訪 頼水(すわ よりみず)は、安土桃山時代江戸時代前期の大名。信濃諏訪藩の初代藩主。諏訪頼忠の長男。
天正5年(1577年)、6歳で父頼忠から諏訪大社大祝(おおほうり)職を譲られる。天正18年(1590年)、父と共に小田原征伐に従軍する。その後、主家の徳川氏が関東に移封となったため、頼忠父子はこれに従って諏訪を離れて関東に移り、武蔵国奈良梨に所領を与えられた。その翌々年、上野国総社へ移封され、同年に父から家督を譲られている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従い、信濃国上野国の守備を命じられた。その功績により、戦後の慶長6年(1601年)10月、信濃国高島2万7,000石へ復帰を許された。第二次上田合戦後には上田城の受取役を果たしている。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では甲府城の守備を命じられ、長男の忠頼が諏訪軍を率いて出兵した。頼水は冬の陣の際に自身が城の留守居などのような閑職に留められていることに奮起し、夏の陣では大坂へ従軍させてもらうように願ったが、かなえられず夏の陣でも甲府城の守備を命じられた。
元和2年(1616年)、改易となった松平忠輝の身柄を預かり、その後、諏訪氏は忠輝の面倒を生涯見ている。寛永11年(1634年)、第3代将軍・徳川家光から杯と饗応を受けるという厚遇を受けるほどの信任を受けた。寛永17年(1640年)、忠頼(忠恒)に家督を譲って隠居し、翌年の寛永18年1月14日(1641年2月23日)に72歳で死去した。  (wikipedia・諏訪頼水より)]

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」[絵図中央右端・諏訪因幡守(諏訪忠誠)中屋敷と記述されています。]

カメラ位置周辺が諏訪藩諏訪家中屋敷跡になると思います。