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鍵屋・玉屋
[古川柳に「花火屋は何れも稲荷の氏子なり」という一句があります。これは鍵屋の守護神であるお稲荷さんの狐が、一方は鍵をくわえ、一方は玉をくわえていたところから、この鍵をとって創業の際に屋号にしたことを詠んだもので、当時花火屋といえば鍵屋を指していたことがわかります。鍵屋の七代目が番頭の清七にのれん分けする際、玉屋の屋号を与えたのも、もう一方のお稲荷さんがくわえていた玉にあやかるようにとの意図でした。それ以降、両国の川開きでは鍵屋、玉屋が川の上下に船を出して競演し、「鍵屋あー」「玉屋あー」と江戸の人々に声をかけられました。しかし、玉屋は不慮の失火により江戸所払いとなり、鍵屋は現在に至っています。(鍵屋の現住所:東京都江戸川区東小松川2-28-21)
●萬治二(1659)年 – 鍵屋初代弥兵衛、奈良・篠原村より江戸へ出て日本橋横山町で店を開く。葦の管に火薬を練って小さな玉をつくり、「火の花」「花の火」「花火」と称して売り出したところ、飛ぶように売れたという。
●正徳元(1711)年 – 隅田川で初めての花火を鍵屋が打ち揚げる。将軍徳川家宣の命で鍵屋が流星を打ち揚げたとの記録が残される。
●享保十八(1733)年 – 五月二十八日、水神祭を行い、その際、両国川開き大花火創始。この時の花火師は、鍵屋六代目弥兵衛。当時一晩に上げた花火の数は、仕掛、打ち揚げ合わせて二十発内外といわれる。
●文化五(1808)年 – 鍵屋番頭の清七、のれんわけして、両国吉川町で玉屋を名乗る。
●天保十三(1842)年 – 五月二十四日、江戸幕府は花火師鍵屋弥兵衛、玉屋市兵衛を呼出し、大川筋の花火に代銀三匁以上の費用をかけることと、花火からくり(仕掛花火)、筒物を禁止した。
●明治七(1874)年 – 七月五日、両国花火。天気好く人出盛んにて、各料亭とも満員客止となる。花火が真丸く開くのはこの時分からで、十代目鍵屋弥兵衛の苦心によるという。
●明治十(1877)年 – 鍵屋十一代目弥兵衛、塩素酸カリウム等による赤色、青色を出すのに苦心。薄桃色とビワ色程度は出せるようになる。
●明治三六(1904)年 – 五月から七月まで、鍵屋十一代目弥兵衛マニラに行き、スターマインを持ち帰る。八月、両国川開き大花火にスターマイン連発初めて登場す。 (「宗家花火鍵屋ホームページ – 鍵屋の歴史」より)]
[鍵屋初代弥兵衛は、両国は横山町三丁目 に、屋号を鍵屋として店を構えたが、研究家の弥兵術が火術家の上げるのろしを見て新たに開発した花火は、それまでにない美しさを持っていたため売れに売れた。結局、江戸に出てきたその年に鍵屋は御本丸御用達にまでなり、弥兵街の名は代々世襲されてい ったのである。
両国吉川町。鍵屋とは広小路をはさんでち ょうど向かいとなるところに玉屋市兵衛の看板が掲げられた。鍵屋の手代であった清七が独立して店を持ったのである。これは異例の出世だった。商家では丁稚、手代、番頭という階級があるが、20年以上勤めてようやく 番頭。36、7歳で退職金をもらって、いわゆるのれん分け、別家するのが通常だった。 それが手代で独立、店舗を構えた。清七の才能がいかにずばぬけていたかが知れる。
江戸っ子たちはこの二大花火師の競演に「玉や、鍵や」のかけ声て応えた。上空で開いた花火が川に落ちるまでほめている、それが本式なのだそうだ。当時は玉屋が人気も技術も高かったようで、「玉屋だと 又ぬかすわと 鍵屋云ひ」、「橋の上、玉や玉やの声ばかり なぜに鍵やといわぬ情なし」といった川柳や歌が残され、浮世絵に描かれた花火船も玉屋のものばかりであった。
ところが、天保14年(1843)5月17日の夜、玉屋から出火。店は全焼し、町を半丁ほど類焼させてしまった。火事は重罪ではあるが、失火については多少は酌量される。しかしこの日は、十二代将軍徳川家慶の日光社参の前日であったことから、財産没収の上、江戸追放、家名断絶という厳しい処分となった。 まさに玉屋は花火のようにわずか32年間、一代限りでその栄光の座を失ったのである。その後はまた鍵屋がすべてを受 け持つことになったが、あがる歓声は、「たぁまやあ」 だったという。 (「華麗なる競演-鍵屋と玉屋 | 花火の歴史」より)]
『江戸買物独案内』画像データベース(早稲田大学)の江戸買物獨案内 上・下巻・飲食之部(上巻 / 内容画像21・下画左端)に玉屋市兵衛が掲載されている。
カメラ位置は浅草橋交差点で、カメラ西南西方向が鍵屋があった横山町三丁目方向で、カメラ北東方向が玉屋があった吉川町になります。