鎌倉橋、鎌倉河岸

マーカーは鎌倉橋です。

鎌倉河岸
[天正(てんしょう)18年(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東240万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏(ごほうじょうし)が整備しただけの粗末なものでした。慶長(けいちょう)8年 (1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった家康は、江戸幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請(ふしん)に乗り出します。家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(さがみのくに)(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸(かまくらがし)」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦(めいれき)3年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。江戸城築城に際して、家康が近江(おうみ)から連れてきた甲良家(こうらけ)も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方(さくじかた)の大棟梁(だいとうりょう)として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺(ぞうじょうじ)、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。  (「千代田区総合ホームページ – 千代田区 町名由来板ガイド」より)]

[古くは相模産の石揚場であった。その後も物資の集散地として重要な位置を占めた。このため、周辺には口入屋が集まっていた。  (「江戸切絵図散策」より)]

鎌倉橋
[日本橋川に架かり、大手町一・二丁目から内神田一・二丁目に通じる橋で、外堀通りにあります。関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋で、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ-ト橋です。名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによります。また、この鎌倉橋には、日本本土土市街地への空襲が始まった痕跡が残っています。欄干には、昭和19年(1944)年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えています。  (千代田区観光協会ホームページ・町名由来板ガイドより)]

豊島屋
[慶長元年(1596年)、常陸国出身の初代豊島屋十右衛門が鎌倉河岸神田橋辺、現在の内神田二丁目2-1で酒屋を創業した。鎌倉河岸は江戸城普請のための荷揚場として建造され、石材が鎌倉を経由して運び込まれた、或いは普請の職人に鎌倉出身者が多かったことから名付けられた。豊島屋はこうした普請に関わる職人などを対象に下り酒を安価で提供した。豊島屋は白酒の元祖として有名で、江戸時代に「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠われた。十右衛門の夢枕に紙雛が現れ、白酒の製法を伝授され、桃の節句前に売り出したところ飛ぶように売れたという。桃の節句に白酒を飲む風習は豊島屋が発祥である。これにより女性や大名などの新たな顧客を開拓した。毎年桃の節句前の2月25日に行われた白酒の大売出しでは江戸中から人が押し寄せ、風物詩となった。この様子は長谷川雪旦の『江戸名所図会』「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」に詳しく描かれている。「酒醤油相休申候」の看板を掲げ、当日は他の商品は販売しなかった。あらかじめ切手を買わせ、左側の扉を入口、右側を出口とし、一方通行に並ばせた。入口上には櫓を設け、気分が悪くなった客のために屋根上に鳶と気付け薬を持った医者を待機させた。白酒は昼頃には売り切れ、1,400樽が空き、売上は数千両に上ったという。  (wikipedia・豊島屋本店より)]

カメラ位置は鎌倉橋北詰めです。

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図

「江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・鎌倉町豊島屋酒店

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「鎌倉町豊島屋酒店」(1-50)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*