長崎屋跡

マーカーは長崎屋跡説明板です。

長崎屋跡
[寛永18年(1641年)の鎖国完成後、長崎出島においてただ一国貿易を許されていたオランダは、そのお礼の意味で年一度献上品を携えて江戸に上り、将軍に拝謁することになっていました。その際、一行は、江戸では長崎屋源右衛門の長崎屋を定宿とし、100名以上も泊まったそうです。また、長崎屋にオランダ人が滞在している間に、幕府の天文方、医官、蘭学者などが訪問して学術的な質問をするなど、知識の交流の場としても大きな役割を果たしました。(中央区観光協会ホームページより)]

[長崎出身の江原源右衛門が、徳川家康の時代に江戸へ移り、初代長崎屋源右衛門となった。初代の頃から江戸幕府御用達の薬種問屋であったが、享保20年(1735年)には幕府がこの商家に唐人参座を置き、幕末まで江戸での唐人参専売を行った。
カピタン一行の定宿となったのは17世紀前半、初代が逝去した後のことである。以後、嘉永3年(1850年)まで定宿として使われていた(安政5年、1858年に駐日オランダ領事官が江戸へ来た際には、この商家を宿としていない)。
江戸時代、日本橋一帯は幾度も大火に見舞われた。この商家もたびたび焼失し、カピタン一行が被災することも一度ならずあったが、焼失の都度オランダ商館からの援助を受け再建している。
カピタン一行の滞在中にこの商家を訪れた人物には、平賀源内前野良沢杉田玄白中川淳庵最上徳内高橋景保などがいる。学者や文化人が知識と交流を求めて訪れるだけにとどまらず、多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵(外部リンク)が残されている。
商館の一員としてこの商家に滞在し、積極的に日本の知識を吸収していった人物には、エンゲルベルト・ケンペルカール・ツンベルクフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらがいる。
万延2年(1861年)、第11代長崎屋源右衛門は本石町から転出した。2006年(平成18年)現在、この商家の跡地にはビルが建っており遺構は無いが、中央区から区民史跡として登録されており、新日本橋駅4番出口の脇に文化財としての説明が書かれたプレートが掲げられている。
長崎屋跡・(wikipedia-photo  (wikipedia・長崎屋源右衛門より」)]

第11代長崎屋源右衛門は本石町からの転出状況とその後の輸入小銃の売りさばきについては「東京都中央区立京橋図書館 – 郷土室だより – 34.切絵図考証二一 安藤菊二(PDFファイル:1446.15 KB)」をごらんください。

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図

長崎屋跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向・地下鉄出入口左壁に、長崎屋跡説明板があります。

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