関宿藩久世家下(中)屋敷跡

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関宿藩久世家
[関宿藩(せきやどはん)は、下総国葛飾郡(現在の千葉県野田市)関宿三軒家に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。
利根川江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。
寛文9年(1669年)板倉氏が去った後、久世広之が5万石で入る。広之は徳川家綱の下で側衆、若年寄老中を歴任した人物である。広之の死後は子の久世重之が継ぎ、天和3年(1683年)8月に備中庭瀬藩に移された。同年9月、牧野成貞常陸国内より2万石加増の5万3000石で入る。成貞は徳川綱吉の下で側用人として重用されたことから、元禄元年(1688年)、和泉国や常陸国内に2万石を加増されて7万3000石の大名となった。元禄8年(1695年)に隠居し、家督は養嗣子の牧野成春が継いだ。成春は宝永2年(1705年)に7000石を加増の上で三河吉田藩に移封された。
代わって久世重之が関宿藩主に再任となる。以後、久世家の支配により明治維新を迎えることとなる。重之は関宿藩に戻る前にすでに寺社奉行、若年寄を歴任して5万石を領していたが、関宿藩主となった翌年に老中に栄進したことから、1万石を加増された。久世家3代・暉之は弟に2000石を分与したため、関宿藩は5万8000石となった。
幕末期には様々な混乱があったが、何とか乗り切っている。久世家9代・広業の時代に明治維新を迎え、明治2年(1869年)の版籍奉還で広業は知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって関宿藩は廃藩となる。  (wikipedia・関宿藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – [日本橋南北浜町八町堀辺図] ([嘉永6[1853]?])」(絵図下中央に久世大和守(久世広周)下屋敷が描かれています。)

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図右下に久世大和守(久世広周)中屋敷が描かれています。)

カメラ位置は箱崎湊橋通り・中央区日本橋箱崎町15-3地先T字交差点で、カメラ南東方向道路を含む両サイドが関宿藩久世家下(中)屋敷跡になると思います。