鶴牧藩水野家中屋敷跡

マーカーは鶴牧藩水野家中屋敷跡です。

関連リンク – 鶴牧藩水野家上屋敷跡鶴牧藩水野家下・抱屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP632・コマ番号360/553から鶴牧藩屋敷の変遷について記載されています。P636・コマ番号362/553「中屋敷 蛎殻町」がこの地になります。

水野忠順
[水野 忠順(みずの ただより、文政7年9月17日(1824年11月7日) – 明治17年(1884年)12月9日)は、上総鶴牧藩第2代藩主・水野忠実の次男として生まれる。天保11年(1840年)12月16日に従五位下・山城守に叙位・任官する。天保13年(1842年)、父の死去により家督を継ぎ、6月17日に壱岐守に遷任する。
嘉永元年(1848年)に奏者番に任じられる。嘉永7年(1854年)1月に周防守に遷任し、文久2年(1862年)3月に肥前守に遷任する。藩政では困窮者救済のために米を与えたり、学問を奨励して藩校・修来館を創設している。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順する。しかし4月、鶴牧藩内の市原郡五井村で五井戦争が起こる。この不手際から明治元年(1868年)10月、安房国長狭や上総国夷隅・市原・埴生・長柄・山辺などの所領を上知され、代わって上総国市原・望陀両郡に新たな所領を与えられた。
明治2年(1869年)の版籍奉還で鶴牧知藩事に任じられる。忠順は官制・軍制改革を主とした藩政改革を行なったが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で知藩事を免官された。  (wikipedia・水野忠順より)]

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」[絵図四つ切右下・松島町上に水野壱岐守(水野忠順)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は甘酒横丁交差点で、カメラ北東方向甘酒横丁を含み両サイドが鶴牧藩水野家中屋敷跡になると思います。甘酒横丁は明治になって出来た街並みです。