麻生藩新庄家上屋敷跡

マーカーは麻生藩新庄家上屋敷跡です。

関連リンク – 麻生藩新庄家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP791・コマ番号439/553から麻生藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 濱町 日本橋区濱町三丁目」がこの地になります。

麻生藩新庄家
[麻生藩(あそうはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は麻生陣屋(現在の茨城県行方市麻生)。
新庄直頼慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、西軍に属したため、戦後に摂津国高槻の所領を没収されていたが、後に許されて徳川家康に召し出され、1604年、常陸国行方、河内、新治、真壁、那珂、下野国芳賀、都賀、河内8郡内に3万石300石余の所領を賜った。ここに常陸国行方郡麻生を居所に麻生藩が立藩された。
第2代藩主・新庄直定は父の遺領2万7300石余を継ぎ、弟の新庄直房に3000石を分与している。直定は元和2年から没するまで幕府の奏者番をつとめた。第3代藩主・新庄直好の時、元和8年に下野国内の領地1万石を常陸国新治郡に移された。直好は継嗣が無く、養子の新庄直時を嗣子としていたが、万治3年(1660年)に62歳という高齢になってから実子の新庄直矩が生まれた。しかし直好は寛文2年(1662年)に死去してしまい、3歳の幼児に跡を継がせるわけにもいかず、直時がそのまま跡を嗣いだ。延宝2年(1674年)、直矩が15歳に成長すると、直時から直矩に家督が譲られた。このとき、隠居した直時に藩領から鹿島郡内7000石が分与され、麻生藩は2万石余となる。ところが2年後の延宝4年(1676年)、17歳で急死した上に直矩には継嗣が無く、新庄家は江戸幕府に無断で後継者を擁立しようとしたこともあって改易された。
しかし幕府は、7000石の旗本となっていた前藩主の直時に、その旗本領に3000石を加増して常陸国行方、新治郡内1万石の所領を与えて再勤を認め、麻生藩の再興を許した。
以後、新庄家の支配で明治時代にまで至った。  (wikipedia・麻生藩より)]

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」[絵図右下に新庄駿河守(新庄直彪)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号259/284「享保年中(1716年-1736年)之形」からコマ番号266/284「当時(文久元年・1861年)・之形」の絵図左ページ中央に新庄駿河守、越前守、主殿頭と記述されています。)

カメラ位置は中央区日本橋浜町3丁目24北西角で、カメラ東南東方向が麻生藩新庄家上屋敷跡になると思います。